1. はじめに
2024年11月の大統領選挙においてドナルド・トランプ氏が勝利を収めたことで、アメリカの知的財産政策は大きな転換点を迎えようとしています。米国特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)の長官人事をはじめとする重要ポストの人選や、知的財産関連法案の行方など、実務家が注目すべきポイントは数多くあります。特に、バイデン政権下で進められてきた生成AI(Generative AI)規制や医薬品特許に関する政策が、トランプ政権2期目でどのように変更されるのかは、知財プロフェッショナルにとって大きな関心事となっています。
今回の選挙では、知的財産政策そのものが主要な争点とはなりませんでしたが、トランプ氏は「イノベーション」を重視する姿勢を示しています。共和党の政策綱領(GOP PLATFORM)では、バイデン政権によるAI規制を「イノベーションを阻害する」として批判し、その撤回を公約に掲げました。また、中国との技術覇権競争という文脈においても、知的財産保護の強化が重要な政策課題として位置づけられています。
さらに注目すべきは、上院司法委員会の知的財産小委員会(Senate Subcommittee on Intellectual Property)の構成変更です。委員長がクリス・クーンズ(Chris Coons)上院議員から特許権強化派のトム・ティリス(Thom Tillis)上院議員に交代することで、特許権者寄りの法案審議が進む可能性が高まっています。
本稿では、2025年以降のアメリカ知的財産政策について、USPTOの運営方針、重要法案の行方、実務への影響、そしてグローバルな含意という4つの観点から詳しく解説していきます。特に、日本の知財プロフェッショナルにとって重要となる政策変更とその実務的な影響に焦点を当てて分析を行います。
2. USPTO運営の変化
2.1 新USPTO長官の人選とその影響
トランプ政権2期目における最も重要な人事の一つが、USPTO長官の人選です。現在のカティ・ヴィダル(Kathi Vidal)長官は、バイデン政権下で特許権の保護と利用のバランスを重視する政策を推進してきました。しかし、トランプ政権では、前回の任期中にUSPTO長官を務めたアンドレイ・イアンク(Andrei Iancu)氏のような、特許権保護を重視する人物が起用される可能性が高いと見られています。
また、すでにカティ・ビダルUSPTO局長は12月初旬に辞任することを発表しており、USPTOにおけるリーダーシップはトランプ氏の大統領就任を前に大きく変わろうとしています。
2.2 特許審査・審判実務の方向性
実務面での大きな変更点として、特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、PTAB)における当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)の運用変更が予想されます。トランプ前政権下では、PTABによる特許無効化を抑制する方向で政策が進められました。
具体的には、裁量的却下(discretionary denial)の基準を緩和したヴィダル長官下の運用が見直される可能性があります。また、特許権者にとって有利な判断基準であった2019年の特許適格性に関するガイダンスが、再び重視される可能性も高まっています。
特に注目されるのは、標準必須特許(Standard Essential Patents、SEP)に関する方針転換です。バイデン政権は、SEP権利者による差止請求権の行使に慎重な姿勢を示してきましたが、トランプ政権では、いわゆる「ニューマディソン・アプローチ(New Madison Approach)」に基づき、SEP権利者の権利行使を支持する方針に戻ることが予想されます。
2.3 AIに関する規制緩和への転換
AIに関する規制方針も大きく変更される見通しです。バイデン大統領が2023年10月に発出したAI規制に関する大統領令は、トランプ政権下で撤回される可能性が高くなっています。共和党の政策綱領では、「AIイノベーションを阻害する規制」の撤廃を明確に掲げています。
USPTOは現在、AI関連発明の特許適格性やAIによる発明の取り扱いについて、新たなガイダンスの策定を進めています。しかし、トランプ政権下では、AIイノベーションを促進する観点から、より柔軟な審査基準が採用される可能性があります。これにより、AI技術の特許保護が強化され、米国企業の国際競争力維持が図られることになるでしょう。
このような規制緩和の方針は、米国がAI開発で主導的地位を維持するという政策目標と密接に結びついています。トランプ陣営は、過度な規制がAI分野での中国との競争において米国の足かせとなることを懸念しており、「自由な言論と人間の繁栄に根ざしたAI開発」を支持する方針を示しています。
3. 知的財産関連法案の行方
3.1 特許適格性に関する法改正の可能性
知的財産関連法案の中で最も注目されているのが、特許適格性の改革を目指す特許適格性回復法案(Patent Eligibility Restoration Act)です。この法案は、ティリス上院議員とクーンズ上院議員が超党派で提出したもので、米国特許法第101条に基づく特許適格性の判断基準を根本的に見直すことを目指しています。
法案の最大の特徴は、裁判所が生み出した特許適格性に関する判例法理(judicially created exceptions)を完全に排除することです。これにより、特に技術分野の特許について、地裁による早期段階での無効判断を制限することが期待されています。共和党が上院司法委員会の主導権を握ったことで、この法案の可決に向けた動きが加速する可能性が高まっています。
3.2 PTAB改革法案の見通し
PTAB改革を目指す重要法案として、米国イノベーション主導権促進・尊重法案(Promoting and Respecting Economically Vital American Innovation Leadership Act、PREVAIL法案)が注目を集めています。この法案には、PTABにおける特許無効の立証基準を「証拠の優越(preponderance of evidence)」から、より厳格な「明確かつ説得力のある証拠(clear and convincing evidence)」に引き上げる条項が含まれています。
また、PREVAIL法案では、PTABへの請求適格を有する者を、特許侵害で提訴されている者または実質的な侵害の争いに直面している者に限定することも提案されています。これは、特許権者にとってPTABでの防御負担を軽減する効果が期待されます。さらに、利害関係者(Real Party in Interest)の定義を拡大し、PTABでの特許無効の請求に財政的支援を行う者も含めることで、重複的な請求を制限することも目指しています。
3.3 その他の重要法案の展望
2024年には、特許権に基づく差止命令の発令基準を見直すRESTORE特許権法案も提出されました。この法案は、eBay v. MercExchange事件(以下eBay事件)で確立された4要件テストを見直し、特許権侵害が認められた場合の差止命令発令について、再び推定規定を導入することを目指しています。
近年の研究によると、eBay判決後、特許非実施主体による差止請求は87.4%、事業会社による請求も65%減少したとされています。この状況を改善するRESTORE特許権法案は、トランプ政権の知的財産権強化の方針とも合致しており、成立の可能性が高まっています。
また、バイ・ドール法(Bayh-Dole Act)に基づく政府の介入権(march-in rights)についても、バイデン政権が導入を目指した薬価規制のための解釈変更が、トランプ政権下で撤回される可能性が高くなっています。これは、医薬品特許権者にとって朗報となるでしょう。
これらの法案は、共和党上院司法委員会の主導の下で審議が加速する可能性が高く、2025年以降、アメリカの特許制度は特許権者にとってより有利な方向へと大きく舵を切ることが予想されます。
4. 実務家が注目すべき変更点
4.1 特許権行使の強化
実務家にとって最も重要な変更点は、特許権の行使がより容易になる可能性が高まっていることです。RESTORE特許権法案の成立により、差止請求が認められやすくなれば、特許権者の交渉力が大幅に強化されることになります。特に、標準必須特許の権利行使について、ニューマディソン・アプローチが復活すれば、実施許諾交渉における特許権者の立場が著しく改善されるでしょう。
また、特許適格性の判断基準が明確化されることで、特に医療・診断方法やソフトウェア関連発明について、より広範な権利取得が可能になると予想されます。これにより、これまで特許適格性の壁に阻まれていた技術分野での特許出願戦略を見直す必要が出てくるかもしれません。
4.2 特許審判制度の利用制限
PTABにおける審判実務も大きく変わる可能性があります。PREVAIL法案が成立すれば、当事者系レビューの請求要件が厳格化され、特許権者にとって防御負担が大幅に軽減されます。特に、実質的な侵害の争いがない限り請求適格が認められなくなることから、特許権者は、いわゆる予防的な特許無効の申立てに対する対応の負担から解放されることになるでしょう。
また、PTABでの無効の立証基準が「明確かつ説得力のある証拠」に引き上げられることで、特許の無効化がより困難になります。これにより、特許権者は、より強い立場で権利行使や実施許諾交渉に臨むことができるようになります。同時に、複数の無効審判請求に対する防御戦略も見直す必要が出てくるかもしれません。
4.3 AIイノベーションへの影響
AI分野では、規制緩和の方針により、特許取得がより容易になる可能性があります。バイデン政権下で進められてきたAIに関する規制的なアプローチが見直され、より柔軟な特許審査基準が採用されることが予想されます。
特に、AIによる発明の取り扱いについて、USPTOは新たなガイダンスを発行する予定です。このガイダンスでは、AI技術を用いた発明の特許適格性や発明者性(inventorship)の問題について、より明確な指針が示されることが期待されています。実務家としては、AI関連発明の権利化戦略を、このガイダンスに合わせて適切に調整する必要があるでしょう。
さらに、AIの学習用データセットの利用に関する法的リスクについても、より柔軟な解釈が示される可能性があります。これにより、AI開発企業は、より広範なデータを活用した開発が可能になるかもしれません。ただし、個人情報保護やプライバシーの観点からの制約は引き続き慎重に検討する必要があります。
5. グローバルな影響
5.1 対中国政策との関連
トランプ政権2期目の知的財産政策は、「中国との戦略的競争」という文脈の中で展開される可能性が高くなっています。共和党の政策綱領では、「中国からの戦略的独立」を実現することが強調されており、知的財産政策もその重要な手段として位置づけられています。
特に注目されるのが、通商法第301条および第232条に基づく関税措置の強化です。前トランプ政権では、中国の知的財産慣行を理由として、大規模な追加関税を課しましました。2期目においても、同様の措置が講じられる可能性が高く、日本企業としても、米中間のサプライチェーンへの影響を慎重に見極める必要があります。
5.2 国際的な知財保護の強化
国際的な知的財産保護の枠組みについても、大きな転換が予想されます。まず注目されるのが、TRIPS協定(Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights Agreement)におけるウェイバー(義務免除)への対応です。バイデン政権は、COVID-19関連の医薬品特許について、TRIPS協定上の義務免除を支持してきましたが、トランプ政権ではこの方針が大きく転換される可能性があります。
また、米国通商代表部(United States Trade Representative、USTR)は、二国間・多国間の通商協定において、より強力な知的財産保護条項を求めていく姿勢を示しています。これは、特に中国との関係において、知的財産権の保護強化を求める圧力となるでしょう。
5.3 医薬品特許政策の変更
医薬品特許の分野では、バイデン政権下で導入された政策の大幅な見直しが予想されます。特に、インフレ抑制法(Inflation Reduction Act)による薬価規制の見直しが焦点となっています。同法により、メディケアで使用される上位10品目の医薬品に対して価格規制が導入されましたが、この政策によって研究開発投資が減少するとの懸念が製薬業界から示されています。
また、バイ・ドール法に基づく政府の介入権の解釈変更も重要な論点です。バイデン政権は、政府資金を用いて開発された医薬品の価格が「不当に高額」な場合に介入権を行使できるとの解釈を示しましたが、トランプ政権ではこの解釈が撤回される可能性が高くなっています。
これらの変更は、グローバルな医薬品特許の実務に大きな影響を与えることが予想されます。特に、日本の製薬企業にとっては、米国市場での特許戦略を見直す必要が出てくるかもしれません。同時に、価格規制の緩和により、新薬開発のインセンティブが回復することも期待されています。
6. 結論
トランプ政権2期目の知的財産政策は、特許権者の権利保護を重視する方向へと大きく舵を切ることが予想されます。USPTO長官の人選、PTAB改革、特許適格性の明確化、差止請求権の強化など、一連の政策変更により、特許権者の立場は著しく改善される可能性が高くなっています。同時に、中国との戦略的競争という文脈の中で、知的財産保護の強化が図られることも見込まれます。特に、AI分野での規制緩和と医薬品特許政策の転換は、イノベーションのインセンティブを高める効果が期待されます。日本の知財プロフェッショナルにとっては、これらの政策変更を踏まえた権利化戦略と権利行使戦略の見直しが重要な課題となるでしょう。