1. はじめに
米国特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)は、商標登録の信頼性と完全性を確保するため、2024年10月28日より商標監査プログラム(Trademark Audit Program)を大幅に拡大することを発表しました。これまでの無作為抽出による監査に加え、デジタル加工された商標見本(specimen)や不正な見本提供サイトからの見本が疑われる案件に対して、的を絞った監査を実施することになります。
この動きの背景には、商標登録制度の健全性を脅かす深刻な問題があります。USPTOが2012年に開始したパイロットプログラムでは、監査対象となった商標登録の実に51%が、登録証に記載された全ての商品・役務について商標の使用を証明できないという衝撃的な結果が明らかになりました。
特に近年、USPTOは商標制度を悪用しようとする組織的な試みを確認しています。デジタル処理により改変された商標見本や、実際の取引を伴わない架空の見本を生成するためだけに作成されたウェブサイト(specimen farms)の存在が大きな問題となっています。
商標登録簿(trademark register)の正確性は、新規の商標を検討する企業や個人にとって極めて重要です。不正確な情報は、商標調査や権利化戦略の検討において無用な時間と費用の浪費を招くだけでなく、ビジネス上の意思決定にも重大な影響を及ぼす可能性があります。
本稿では、このUSPTOの新たな取り組みの詳細と、商標権利者が知っておくべき実務上の影響について解説します。
2. 商標監査プログラムの進化と枠組み
2.1. 監査プログラムの歴史的背景
米国の商標制度は、多くの国とは異なり、商標権者に定期的な使用証明を求める特徴を持っています。この制度は、実際に米国での取引において使用されていない商標が登録簿に残り続けることを防ぐことを目的としています。
2012年、USPTOは商標の使用実態を確認するためのパイロットプログラムを開始しました。このプログラムによって、ランハム法(Lanham Act)第8条または第71条に基づく使用宣誓書(affidavits or declarations of use)の信頼性に関する重大な問題が明らかになりました。監査対象となった商標登録のうち、半数以上が登録内容の全ての商品・役務について使用を証明できなかったのです。
この結果を受けて、2017年にUSPTOは商標監査プログラムを本格的に導入しました。このプログラムでは、無作為に選ばれた商標権者に対して、追加の使用証拠の提出を求めることが可能となりました。
2.2. 新たな監査プログラムの概要
2024年10月28日から開始された新たな監査プログラムでは、これまでの無作為抽出による監査に加えて、特定の傾向に焦点を当てた監査(directed audits)が導入されます。
新プログラムの特徴は、USPTOが商標見本の疑わしい特徴を識別し、より効果的な監査を実施できるようになった点です。たとえば、デジタル加工された見本や、いわゆる「見本ファーム(specimen farms)」から取得された見本が疑われる場合、重点的な審査の対象となります。
審査手続きは、USPTOが最初のオフィスアクション(initial office action)を発行し、登録に含まれる一部または全ての商品・役務について使用証拠の提出を求めるという流れで進められます。
2.3. 監査対象となる商標出願・登録
監査対象となる可能性が高い商標登録には、主に以下のような特徴があります。
第一に、一つの区分で4つ以上の商品・役務を含む登録、または二つ以上の区分でそれぞれ2つ以上の商品・役務を含む登録です。
第二に、デジタル加工や改変の痕跡が見られる商標見本を含む登録です。USPTOは2019年7月に、デジタル加工された見本に関する審査ガイドライン(Examination Guide 3-19)を発行し、この問題への対応を強化してきました。
第三に、見本ファーム()の利用が疑われる登録です。これらのウェブサイトは、通常の取引過程での販売を行わず、単に商標登録のための見本を提供する目的で作られています。典型的な特徴として、不完全な連絡先情報、空白のページ、不適切な商品説明、米国内での購入や配送ができないことなどが挙げられます。
3. 監査プログラム拡大の実務的影響
3.1. フェイク商標見本の定義と種類
USPTOは、近年増加しているフェイク商標見本について、主に二つの類型を問題視しています。一つは、デジタル作成・加工された見本(digitally created/altered specimens)で、もう一つは見本ファームから取得された見本です。
デジタル作成・加工された見本は、実際の商取引を反映していない画像を作り出すものです。例えば、既存の商品画像にデジタル処理で商標を追加したり、実在しない商品パッケージのモックアップを作成したりするケースが該当します。
一方、見本ファームは更に巧妙な手法を用います。これらのウェブサイトは一見すると通常のeコマースサイトのように見えますが、実際には商品の販売を目的としていません。USPTOの調査によると、見本ファームには以下のような特徴的なパターンが見られます。連絡先情報が不完全であること、多くのページが空白のままであること、同じ商品情報が異なる商品に使いまわされていること、そして米国内での購入や配送ができないことなどです。
3.2. 監査手続きの流れ
監査プロセスは、USPTOによる最初のオフィスアクションの発行から始まります。ここで、商標権者は出願に含まれる商品・役務について、追加の使用証拠を提出するよう求められます。
提出を求められる証拠には、商標見本、証明書(exhibits)、宣誓供述書(affidavits)、その他USPTOが必要と判断する関連情報が含まれます。これらの証拠は、米国における商業上の使用(use in commerce)を立証するものでなければなりません。
商標権者には、オフィスアクションへの応答期限として6ヶ月が与えられます。この期間内に適切な応答がない場合、または十分な使用証拠を提示できない場合、該当する商品・役務について登録が取り消される可能性があります。
3.3. 監査対応における注意点
監査対応で最も重要なのは、商標の実際の使用状況と登録内容の整合性を確保することです。特にマドリッド協定議定書(Madrid Protocol)に基づく登録など、広範な商品・役務を含む登録については、使用宣誓書の提出前に慎重な見直しが必要です。
USPTOは、すべての商品・役務について使用を維持しようとするのではなく、実際に使用している商品・役務に登録を限定することを推奨しています。不使用の商品・役務を維持しようとして不適切な見本を提出することは、かえって登録全体の有効性を危険にさらす可能性があります。
また、商標見本の準備においては、デジタル加工や見本ファームの利用を避け、実際の取引を反映した真正な証拠を提出することが重要です。USPTOは、これらの不適切な見本に対して、より厳格な審査を行う姿勢を示しています。
4. 商標権利者が取るべき対応
4.1. 商標ポートフォリオの見直し
商標監査プログラムの拡大を受けて、商標権利者は自社の商標ポートフォリオを包括的に見直す必要性に迫られています。特に登録維持費用(maintenance fees)の支払期限が近づいている商標については、優先的な確認が求められます。
この見直しでは、各商標登録に含まれる商品・役務のリストを精査し、実際の取引で使用している範囲と一致しているかを確認することが重要です。特にマドリッドプロトコル経由の登録など、広範な商品・役務を含む登録については、より慎重な検討が必要となるでしょう。実務的には、使用していない商品・役務を自主的に削除することで、監査リスクを低減できます。
4.2. 商標見本の適切な準備と管理
商標見本の準備と管理は、これまで以上に重要性を増しています。USPTOは使用証拠(specimens of use)について、実際の取引を反映した真正なものであることを求めています。
商標見本の準備において重要なのは、以下の点です。まず、実際の商取引での使用状況を示す証拠を日常的に収集・保管することです。これには、商品の写真、パッケージ、広告材料、請求書など、様々な形態が含まれます。次に、これらの証拠は時系列で整理し、必要に応じて即座に提出できる状態で管理することです。さらに、各商品・役務についての使用開始日と使用継続の証拠を明確に記録しておくことも重要です。
4.3. 監査への対応準備
効果的な監査対応のためには、事前の準備が不可欠です。まず、知的財産部門と実務部門の連携体制を構築し、商標の使用状況に関する情報を常に最新の状態に保つ必要があります。
監査を受けた場合の対応手順をあらかじめ明確にしておくことも重要です。オフィスアクションを受領してから6ヶ月の応答期限内に適切に対応するためには、社内での承認プロセスや必要な証拠の収集方法をあらかじめ定めておく必要があります。
特に注意すべきは、使用の立証が困難な商品・役務が含まれている場合の対応です。そのような場合、該当する商品・役務を自主的に削除することで、登録全体の有効性を確保する戦略的な判断が求められます。アメリカの代理人と相談し、適切な対応方針を事前に検討しておくことをお勧めします。
5. 結論
USPTOによる商標監査プログラムの拡大は、商標登録制度の信頼性と完全性を確保するための重要な一歩といえます。フェイク商標見本の問題に焦点を当てた新たな監査体制は、商標権利者に対してより厳格な使用証明を求めることになりますが、これは健全な商標制度の維持にとって必要不可欠な措置です。商標権利者は、この変更を自社の商標管理体制を見直す好機と捉え、実際の使用実態に即した権利範囲の適正化を図るとともに、真正な商標見本の収集・管理体制を整備することが求められます。このような取り組みは、短期的には負担増となる可能性がありますが、長期的には商標権の安定性向上につながり、結果として企業の知的財産戦略全体にプラスの影響をもたらすことでしょう。