1. はじめに
米国特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)のKathi Vidal長官は、特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、PTAB)の制裁命令(Sanctions Order)に関する重要な決定を下しました。この決定は、特許権者による証拠隠蔽行為に対する厳格な姿勢を示すものです。
本件は、Spectrum Solutions LLC v. Longhorn Vaccines & Diagnostics, LLC事件において、Longhorn社が当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)手続中に重要な証拠を意図的に隠蔽したことに端を発しています。PTABは、この行為を深刻な違反と判断し、厳しい制裁を科しました。
Vidal長官は、自らのイニシアチブで長官レビュー(Director Review)を開始し、PTABの決定を詳細に検討。その結果、PTABの決定を概ね支持しつつ、いくつかの重要な修正を加えました。この決定は、AIA手続における証拠開示の重要性、ワークプロダクト・ドクトリンの適用範囲、そして制裁の適切性と比例性など、多くの法的論点に関する指針を提供しています。
本稿では、事件の背景から長官の判断、そして実務への影響まで、この画期的な決定を多角的に分析します。特許実務家や企業の知財部門にとって、今後のAIA手続における行動指針となる重要な情報を提供していきます。
2. 事件の背景
2.1 IPR手続の概要
本事件は、Spectrum Solutions LLCがLonghorn Vaccines & Diagnostics, LLCの特許に対して申し立てた当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)から始まりました。IPRは、2011年のアメリカ発明法(America Invents Act、AIA)によって導入された特許の有効性を争う手続です。この制度により、第三者は特許の無効を主張する機会を得られるようになりました。
Spectrumは、Longhornが保有する5つの特許について、先行技術に基づく無効性を主張しました。これらの特許は、生物学的サンプル中の病原体を殺す一方で核酸を分解しない方法と組成物に関するものでした。IPR手続では、特許の有効性を判断するために、両当事者が証拠を提出し、主張を展開します。
2.2 Longhornによる証拠隠蔽行為
事態が深刻化したのは、Longhornが第三者機関に依頼して行った試験結果の取り扱いでした。Longhornは、先行技術文献に開示された組成物が特許クレームの限定を満たすかどうかを確認するために、複数の微生物に対する試験を実施させました。しかし、その結果の一部を意図的に隠蔽したのです。
具体的には、Longhornは第三者機関に対し、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)、枯草菌(Bacillus subtilis)、緑膿菌(Pseudomonas aeruginosa)、大腸菌ファージMS2(E. coli Bacteriophage MS2)に対する試験を依頼しました。また、DNaseとRNaseの不活性化についても調べさせました。
ところが、Longhornは PTABに提出した報告書(Submitted ABL Report)には、B. subtilis、MS2、RNaseに関する結果のみを含め、S. aureus、P. aeruginosa、DNaseに関する結果を意図的に除外しました。除外された結果は、先行技術の組成物が一部の病原体を完全に除去し、DNaseを不活性化し、DNAを分解しないことを示していました。
さらに深刻なことに、Longhornは自社の専門家証人にも不完全な報告書のみを提供し、全ての試験結果を開示しませんでした。その結果、専門家は不完全な情報に基づいて意見を形成し、証言を行うことになりました。
これらの行為は、PTABの手続における誠実義務(duty of candor)に違反し、公正な審理を妨げる重大な問題として扱われることになりました。Longhornの行動は、IPR手続の信頼性を損なう恐れがあるとして、厳しい目が向けられることになったのです。
3. PTABの制裁命令
3.1 違反した規則
PTABは、Longhornの行為が複数の規則に違反していると判断しました。主な違反は以下の通りです:
- 誠実義務および信義誠実の原則(37 C.F.R. § 42.11(a)):この規則は、手続に関与する当事者および個人に対し、USPTOに対する誠実義務と信義誠実(good faith)の原則を課しています。Longhornは重要な証拠を隠蔽することで、この義務に違反しました。
- 証明要件(37 C.F.R. §§ 42.11(c)および11.18(b)(2)):これらの規則は、PTABに提出される書類の内容が真実であることを証明する要件を定めています。不完全な情報に基づく専門家の証言を提出することで、Longhornはこの要件に違反しました。
- 必須開示規則(37 C.F.R. § 42.51(b)(1)(iii)):この規則は、当事者が自身の主張と矛盾する関連情報を開示する義務を定めています。Longhornは、自社に不利な試験結果を開示しなかったことでこの規則に違反しました。
PTABは、これらの規則違反が単なる過失ではなく、意図的かつ組織的な証拠隠蔽の計画であったと結論付けました。特に深刻だったのは、Longhornが自社の専門家証人にも完全な情報を提供せず、不完全な証言を誘導した点です。
3.2 制裁の内容
PTABは、Longhornの行為の重大性を考慮し、厳しい制裁を科しました:
- 争点となっていた全183のクレームに対する不利な判断(adverse judgment):これには、PTABが実体審理の結果、無効と判断した176のクレームだけでなく、無効と判断されなかった7つのクレームも含まれています。
- 訂正モーション(Revised Contingent Motions to Amend)の却下:Longhornが提出した全ての訂正モーションが却下されました。
この制裁は、AIA手続における最も厳しいものの一つと言えます。PTABはこの決定において、Longhornの行為が手続の完全性を損なうものであり、USPTOと公衆の利益を害するものであると強調しました。
さらに、PTABは補足意見において、請願人の補償的費用(弁護士費用を含む)の支払いを追加の制裁として検討すべきだという見解も示されました。
これらの制裁は、AIA手続における誠実性と透明性の重要性を強調するものです。PTABは、証拠の隠蔽や不誠実な行為が、特許制度の信頼性を損なう重大な問題であると位置づけ、今後同様の行為を抑止する意図を明確に示しました。
4. USPTO長官による再検討
4.1 再検討の範囲
Kathi Vidal長官は、2023年6月12日に自発的に長官レビュー(Director Review)を開始しました。この長官レビューは、PTABの最終決定全体を対象としていましたが、後に制裁命令に焦点を絞ることが明確にされました。
長官は、以下の重要な問題に特に注目しました:
- AIA手続中に当事者が関連する事実的証拠を隠蔽した場合、どのUSPTO規則が関係するか。
- そのような証拠隠蔽に対して、全クレームを無効とする不利な判断を下すことが適切な制裁といえるか。
- 証拠隠蔽に対して、他にどのような制裁が適切か。
Vidal長官は、当事者および法廷助言者(amici curiae)からの意見を求め、この問題に関する包括的な分析を行いました。この長官レビューは、AIA手続における証拠開示の重要性と、違反行為に対する制裁の適切性を検討する貴重な機会となりました。
4.2 長官の主な判断
Vidal長官は、PTABの制裁命令を概ね支持しましたが、いくつかの重要な修正を加えました:
- 規則違反の認定:37 C.F.R. §§ 42.11(a)、42.11(c)、11.18(b)(2)、42.51(b)(1)(iii)の違反を確認しました。しかし、37 C.F.R. § 1.56(特許出願中の情報開示義務)はAIA手続には適用されないとし、この部分のPTABの判断を取り消しました。また、37 C.F.R. §§ 11.106(c)と11.303の違反については、弁護士懲戒手続で扱うべき問題として判断を控えました。
- 制裁の妥当性:全クレームに対する不利な判断という厳しい制裁を支持しました。この制裁が、Longhornの行為の重大性に比例しており、将来の同様の行為を抑止する効果があると判断しました。
- ワークプロダクト・ドクトリン:Longhornが主張したワークプロダクト・ドクトリンによる保護は、選択的開示によって放棄されたと判断しました。
- セーフハーバー条項:Rule 42.11(d)(2)のセーフハーバー条項の適用を否定しました。Longhornの対応が、誤解を招く陳述や証言を実質的に修正または撤回するものではなかったと判断しました。
- 当事者と代理人の責任:代理人の行為に対する責任は当事者にも及ぶとし、Longhornの「代理人の行為であって自社の責任ではない」という主張を退けました。
Vidal長官は、この判断を通じて、AIA手続における誠実性と透明性の重要性を強調しました。同時に、証拠隠蔽行為に対する厳格な姿勢を示し、特許制度の信頼性を維持する決意を表明しました。この決定は、今後のAIA手続における当事者の行動指針として重要な先例となるでしょう。
5. 重要な法的論点
5.1 ワークプロダクト・ドクトリンの適用
ワークプロダクト・ドクトリン(Work Product Doctrine)は、弁護士の訴訟準備のための資料や精神的作業の成果物を保護するための法理です。米国の判例法で確立された概念で、特に Hickman v. Taylor, 329 U.S. 495 (1947) 事件で明確化されました。
この法理の目的は、「弁護士が一定の程度のプライバシーを保ちつつ、対立当事者やその弁護士からの不必要な干渉を受けずに仕事をすることが不可欠である」という認識に基づいています。ワークプロダクト・ドクトリンは、「インタビュー、供述書、覚書、通信文、概要書、個人的な信念、その他無数の有形・無形の方法」で作成された弁護士の仕事を保護します。
本事件では、このドクトリンの適用範囲と限界が重要な論点となりました。
Vidal長官は、Longhornによるワークプロダクト・ドクトリンの主張を退けました。その理由として、以下の点が挙げられています:
- 選択的開示による権利放棄:Longhornは、有利な試験結果のみを開示し、不利な結果を隠蔽しました。この選択的開示は、ワークプロダクト・ドクトリンの保護を放棄したとみなされます。
- 「剣と盾」の使用:長官は、Longhornが試験結果を「剣」(有利な証拠)として使用しながら、同時に「盾」(不利な証拠の隠蔽)としても使おうとしたと指摘しました。このような行為は、ワークプロダクト・ドクトリンの保護を受けられないと判断されました。
- 代替手段の存在:長官は、Longhornが秘匿特権を主張しつつ開示義務を果たす方法(例:インカメラレビューの要請、特権ログの提出)があったにもかかわらず、それを行わなかったことを批判しました。
この判断は、AIA手続におけるワークプロダクト・ドクトリンの適用に重要な指針を提供しています。特に、証拠の選択的開示や「剣と盾」の使用が、このドクトリンの保護を失わせる可能性があることを明確にしました。
5.2 セーフハーバー条項の解釈
セーフハーバー条項(Safe Harbor Provision)は、37 C.F.R. § 42.11(d)(2)に規定されており、制裁の申立てに対して当事者が是正措置を取る機会を提供しています。本事件では、この条項の解釈と適用が重要な論点となりました。
Vidal長官は、以下の理由からLonghornのセーフハーバー条項の主張を退けました:
- 不十分な是正措置:Longhornが行った対応は、誤解を招く陳述や証言を実質的に修正または撤回するものではありませんでした。
- 専門家証言の問題:Longhornは、完全な試験結果に基づいて専門家の意見を再評価する機会を提供しませんでした。
- 形式的な修正:Longhornの対応は、クレーム解釈の主張を明確にするだけの形式的なものでした。
この判断は、セーフハーバー条項の適用には、実質的かつ誠実な是正措置が必要であることを示しています。単なる形式的な修正や、問題の核心に触れない対応では不十分であるという重要な指針が示されました。
5.3 制裁の適切性と比例性
全クレームに対する不利な判断という厳しい制裁の適切性と比例性は、本事件の中心的な論点の一つでした。Vidal長官は、以下の理由からPTABの制裁を支持しました:
- 行為の重大性:Longhornの証拠隠蔽行為は、意図的かつ組織的なものであり、AIA手続の信頼性を損なう重大な違反でした。
- 抑止効果:厳しい制裁は、将来の同様の行為を抑止する効果があると判断されました。
- 公益性:特許制度の信頼性を維持し、公正な審理を確保するという公益的観点が重視されました。
- 代替制裁の不十分性:補償的費用の支払いなど、より軽い制裁では十分な抑止効果が得られないと判断されました。
この判断は、AIA手続における誠実性と透明性の重要性を強調するものです。同時に、証拠隠蔽行為に対する厳格な姿勢を示し、特許制度の信頼性を維持する決意を表明しています。
この制裁の適切性と比例性の判断は、今後のAIA手続における当事者の行動指針として重要な先例となるでしょう。特許実務家は、証拠開示の重要性と、違反行為に対する厳しい制裁の可能性を十分に認識する必要があります。
6. 実務への影響
6.1 AIA手続における証拠開示の重要性
本事件は、AIA手続における証拠開示の重要性を改めて浮き彫りにしました。特許実務家は、以下の点に特に注意を払う必要があります:
- 完全性と透明性:全ての関連証拠を、有利不利を問わず開示することが求められます。Longhornのような選択的開示は、厳しい制裁の対象となる可能性があります。
- 矛盾する情報の開示:37 C.F.R. § 42.51(b)(1)(iii)に基づき、自身の主張と矛盾する情報も開示する義務があります。この義務は、AIA手続の公正性を確保する上で極めて重要です。
- 専門家証言の基礎:専門家に提供する情報は完全かつ正確でなければなりません。不完全な情報に基づく証言は、手続の信頼性を損なう可能性があります。
- ワークプロダクト・ドクトリンの限界:証拠隠蔽の手段としてこのドクトリンを濫用することは認められません。秘匿特権を主張する場合は、インカメラレビューや特権ログの提出など、適切な手続を踏むべきです。
- 積極的な情報開示:疑わしい場合は開示するという姿勢が重要です。USPTO長官は、証拠隠蔽よりも過剰開示の方が望ましいという立場を示しています。
- セーフハーバー条項の適切な利用:問題が指摘された場合、形式的な対応ではなく、実質的かつ誠実な是正措置を講じることが求められます。
これらの点を踏まえ、特許実務家は証拠開示に関する内部プロセスの見直しや、クライアントへの適切な助言を行う必要があるでしょう。
6.2 代理人の責任と依頼人の責任
本事件では、代理人の行為と依頼人の責任の関係も重要な論点となりました。Vidal長官の判断は、この点に関して以下のような重要な指針を示しています:
- 依頼人の責任:代理人の行為に対する責任は、依頼人にも及びます。Longhornの「代理人の行為であって自社の責任ではない」という主張は退けられました。
- 監督責任:依頼人は、代理人の行為を適切に監督する責任があります。Link v. Wabash Railroad Co.事件で示されたように、代理人の行為は依頼人の行為とみなされます。
- 代理人選択の重要性:依頼人は代理人を自由に選択できますが、その選択の結果も受け入れなければなりません。不適切な代理人を選んだ場合、その責任は依頼人にも及びます。
- 内部コミュニケーションの重要性:依頼人と代理人の間で、関連情報を適切に共有し、戦略を議論することが重要です。情報の隠蔽や誤解は、深刻な結果をもたらす可能性があります。
- 倫理的配慮:代理人は依頼人の利益を代表する一方で、法廷や審判機関に対する倫理的責任も負っています。この二重の責任のバランスを取ることが求められます。
- 改善措置の共同責任:問題が発生した場合、代理人と依頼人が協力して適切な改善措置を講じることが重要です。形式的な対応ではなく、実質的な是正が求められます。
これらの点を踏まえ、特許実務家は依頼人との関係を再考し、適切なコミュニケーションと責任の分担を確立する必要があります。同時に、依頼人も代理人の行為に対してより積極的に関与し、監督する姿勢が求められるでしょう。
本事件の教訓は、AIA手続における誠実性と透明性の重要性を再確認するものです。特許実務家と依頼人の双方が、これらの原則を遵守することで、特許制度の信頼性と効率性が向上することが期待されます。
7. 結論
Spectrum Solutions LLC v. Longhorn Vaccines & Diagnostics, LLC事件における USPTO長官の決定は、AIA手続の誠実性と透明性の重要性を強く再確認しました。この判断は、証拠隠蔽行為に対する厳格な姿勢を示すとともに、ワークプロダクト・ドクトリンの適用範囲、セーフハーバー条項の解釈、そして制裁の適切性と比例性について重要な指針を提供しています。特許実務家と依頼人は、この決定を踏まえ、証拠開示の重要性を再認識し、内部プロセスの見直しや適切なコミュニケーションの確立に努める必要があります。また、代理人と依頼人の責任関係についても、より慎重な配慮が求められます。この事件は、AIA手続における行動指針として長く参照されることになるでしょう。特許制度の信頼性と効率性の向上のため、全ての関係者がこの教訓を活かすことが期待されます。