Image alternative text: 米国カリフォルニア州の陪審団が、エネルギー大手フィリップス66社に対し、6億500万ドルの損害賠償を命じる判決。買収検討時に88件の営業秘密が不正使用された事例から学ぶM&Aデューデリジェンスの教訓。

6億ドルの営業秘密侵害判決から学ぶM&Aデューデリジェンスの教訓

1. はじめに

米国カリフォルニア州の陪審団が、エネルギー大手のフィリップス66社(Phillips 66)に対して6億500万ドル(約900億円)という巨額の損害賠償を命じる評決を下しました。この事件は、買収検討時のデューデリジェンス(Due Diligence)で得た営業秘密(Trade Secrets)の不正使用が問題となったものです。

本件の背景には、再生可能燃料市場への参入を目指すフィリップス66社が、カリフォルニア州で先行してビジネスを展開していたプロペル社(Propel Fuels)の買収を検討したという事情があります。買収交渉の過程で秘密保持契約(Non-Disclosure Agreement、NDA)を締結し、プロペル社から営業戦略や事業データなどの機密情報を取得したものの、翌年突如として買収交渉を打ち切り、その直後に独自の再生可能燃料事業を立ち上げたことが問題視されました。

本件の注目すべき点は、単に損害賠償額の大きさだけではありません。企業買収のデューデリジェンスにおいて、相手方から開示された営業秘密の取扱いがいかに重要であるかを浮き彫りにした事案といえます。特に、複数の営業秘密が統合的な価値を持つビジネスモデルにおいて、その損害額をどのように評価するかという問題に一石を投じました。

昨今、技術革新やビジネスモデルの複雑化に伴い、企業買収における知的財産デューデリジェンスの重要性は増す一方です。本稿では、この画期的な判決の詳細を分析し、実務家が留意すべきポイントを解説していきます。

2. 事件の概要

2.1 事実関係

本件は、バイオ燃料メーカーであるプロペル社とエネルギー大手のフィリップス66社との間の営業秘密をめぐる紛争です。プロペル社は2004年から13年間かけて、低炭素再生可能燃料(low-carbon renewable fuels)の開発を行い、2015年にはカリフォルニア市場向けに高濃度再生可能ディーゼル燃料(retail high-blend renewable diesel fuel)の販売を開始していました。

2017年、フィリップス66社はプロペル社の買収に関心を示し、デューデリジェンスを開始しました。両社は秘密保持契約を締結し、プロペル社は自社の知的財産戦略、事業情報、製品製造方法、各種データなどの機密情報を開示しました。

しかし、2018年になってフィリップス66社は突如として買収交渉を打ち切り、その翌日には自社の高濃度再生可能ディーゼル燃料事業をカリフォルニア州で展開することを規制当局に通知しました。その後、フィリップス66社は州内で急速に事業を拡大していきました。

2.2 訴訟の経緯と判決内容

2022年、プロペル社はフィリップス66社を相手取り、秘密保持契約違反および88件の営業秘密の不正使用を主張して訴訟を提起しました。アラメダ郡上位裁判所(Superior Court of California, County of Alameda)で行われた裁判では、買収検討時に得た機密情報の不正使用が焦点となりました。

注目すべき点は、公判中にフィリップス66社の幹部が、新規事業立ち上げの判断においてプロペル社から得た情報が基礎となっていたことを認める発言をしたことです。陪審団は8日間の評議を経て、フィリップス66社による営業秘密の不正使用を認定し、さらにその行為が故意かつ悪意によるものであったと判断しました。最終的に6億500万ドルという巨額の損害賠償が命じられました

2.3 争点となった法的論点

本件の主要な法的論点は以下の3点です。

  1. 営業秘密の統合的価値:88件の営業秘密は、独立した価値を持つものではなく、ビジネスモデル全体として統合的な価値を持つという評価が争点となりました。プロペル社の主張によれば、これらの営業秘密は不可分一体のものとして企業価値を形成していたとされます。
  2. 損害額の算定方法:不当利得(Unjust Enrichment)の観点から、フィリップス66社が得た利益をどのように評価すべきかが争われました。特に、個々の営業秘密の価値を分割して評価する必要があるか否かが重要な論点となりました。
  3. 秘密保持契約の実効性:買収検討時に締結された秘密保持契約の法的拘束力と、その違反があった場合の救済方法について、詳細な検討が行われました。

本件は、特に複数の営業秘密が組み合わさって形成されるビジネスモデルの価値評価という観点で、今後の実務に大きな影響を与える可能性のある判決といえます。

3. 営業秘密保護の法的枠組み

3.1 買収検討時の機密情報開示と法的保護

企業買収のデューデリジェンスにおける機密情報の開示は、秘密保持契約を基礎とした法的保護の枠組みの中で行われます。本件では、プロペル社の事業戦略、財務データ、運用モデルなど、様々な営業秘密が秘密保持契約に基づいて開示されました。

カリフォルニア州法の下では、このような状況での営業秘密の不正使用には、以下の3つの要素が重要となります:

  1. 秘密保持契約の存在と有効性
  2. 開示された情報の営業秘密該当性
  3. 契約違反または不正使用の証明

特に注目すべきは、本件ではフィリップス66社の幹部による法廷での証言が決定的な証拠となった点です。買収検討時に得た情報が新規事業立ち上げの判断材料となったことを認める発言は、不正使用の直接証拠として評価されました。

3.2 損害賠償額の算定アプローチ

本件における損害賠償額の算定は、不当利得の考え方を基礎としています。セドナ会議(Sedona Conference)の営業秘密訴訟における金銭的救済に関する指針によれば、複数の営業秘密が問題となる事案では、個別の価値算定(apportionment of damages)が原則とされています。

しかし、本件ではプロペル社側が、以下の2点を主張し、認められました:

  1. 市場参入における「ヘッドスタート」の利益全体の算定
  2. 営業秘密の不可分一体性(cannot be disaggregated)に基づく統合的評価

フィリップス66社は、これらの営業秘密なしには再生可能燃料市場への参入自体が困難であったと認定され、その結果として得られた利益全体が損害額の基礎とされました

3.3 営業秘密の統合的価値の評価

本件で特筆すべきは、複数の営業秘密の価値を統合的に評価するアプローチが採用された点です。カリフォルニア州法の下では、原告は損害額について「合理的な確実性」をもって証明する必要がありますが、その際の評価方法については柔軟な解釈が認められています。

プロペル社の専門家証人は、以下のような観点から営業秘密の統合的価値を説明しました:

  • 価格設定戦略と販売量の相関関係
  • マーケティング手法と顧客維持の関連性
  • ビジネスモデル全体としての一体性

このような統合的アプローチは、特にビジネスモデル全体が複数の営業秘密から構成される現代的な事業形態において、より実態に即した損害評価を可能にするものとして注目されています。裁判所は、個々の営業秘密の貢献度を厳密に分離することが困難な場合、このような統合的評価アプローチを採用することを認めました。これは、今後の営業秘密訴訟における損害賠償額の算定方法に大きな影響を与える可能性があります。

4. 実務への示唆

4.1 デューデリジェンス時の情報管理体制

デューデリジェンスにおける情報管理体制の構築において、本件の教訓から導かれる重要な要素として、まず情報アクセス管理の厳格化が挙げられます。これには開示情報へのアクセス権限保有者を明確に特定し、アクセスログを保存して定期的なモニタリングを実施することが含まれます。さらに、情報の段階的開示(Staged Disclosure)による慎重な管理も必要不可欠となります。

次に重要となるのが、クリーンルーム体制の確立です。デューデリジェンス専門チームを組成し、事業部門との間に確実な情報遮断措置を設けることが求められます。また、情報閲覧・保管環境については、物理的にも電子的にも他の業務環境から完全に隔離された状態を維持することが重要です。

とりわけ実務上重視すべきは、受領した情報の使用目的を明確に文書化し、その範囲を逸脱した使用を防ぐための内部統制システムの確立です。本件においてフィリップス66社は、まさにこの点における管理体制が不十分であったことが、訴訟における決定的な不利な証拠として作用する結果となりました。このような事態を防ぐためには、情報管理体制の各要素を有機的に結合させ、組織全体として一貫した管理体制を構築することが不可欠といえるでしょう。

4.2 秘密保持契約(NDA)の重要性と留意点

秘密保持契約の締結にあたっては、まず保護対象情報の明確な定義が不可欠です。営業秘密の範囲を具体的に特定し、機密情報のカテゴリーを適切に分類するとともに、保護の対象から除外される情報を明確に示す必要があります。この定義の明確化は、後の紛争予防において極めて重要な意味を持ちます。

次に、情報の使用目的を具体的に特定することが求められます。買収検討に関する具体的な用途を詳細に列挙し、あわせて禁止される使用方法を明確に規定します。さらに、目的外使用が行われた場合の効果についても、具体的な規定を設けることが重要です。これにより、情報の不正使用に対する抑止力として機能することが期待できます。

また、情報管理義務についても詳細な規定が必要です。情報へのアクセス制限の方法、複製・保管に関する具体的な制限事項、そして情報の返却・廃棄に関する具体的な手順まで、細かく規定することが望ましいといえます。

本件から得られた重要な教訓として、特に買収交渉が不調に終わった場合の情報の取扱いについて、予め詳細な規定を設けておくことの重要性が浮き彫りになりました。この点は、今後のM&A実務において特に留意すべき事項として認識される必要があります。

4.3 買収中止後のリスク管理

買収交渉中止後のリスク管理において、最も優先すべきは情報の適切な取扱いです。受領した全ての情報について完全な返却または廃棄を実施し、その証明書を取得・保管するとともに、社内に残存する可能性のあるデータについても完全な消去を確認する必要があります。この過程は厳密に文書化し、後日の紛争に備えた証跡として保管することが重要です。

事業展開上の配慮事項としては、類似事業への参入時期について慎重な検討が求められます。特に重要なのは、独自開発の過程を詳細に記録し、技術導入の経緯を明確に文書化することです。本件でフィリップス66社が直面した問題からも明らかなように、買収中止直後の類似事業の開始は、不正使用の推定を強める重大な要因となり得ます。

さらに、全社的なコンプライアンス体制の強化も不可欠です。定期的な内部監査の実施、従業員に対する継続的な教育プログラムの実施、そして情報管理状況の継続的なモニタリングを通じて、組織全体としての規律を維持することが重要です。

また、実務上の現実的な対応として、デューデリジェンスで得た情報の影響を完全に排除することが困難な場合には、ターゲット企業との間で新たなライセンス契約等の締結を検討することも有効な選択肢となります。このような予防的アプローチを通じて、将来の紛争リスクを大幅に軽減することが可能となります。結局のところ、買収中止後のリスク管理は、単なる情報の返却や廃棄にとどまらず、事業戦略全体を見据えた総合的なアプローチが必要とされるのです。

5. 結論

本件のプロペル社対フィリップス66社の訴訟は、M&Aデューデリジェンスにおける営業秘密管理の重要性を改めて認識させる画期的な判決となりました。特に注目すべきは、複数の営業秘密が不可分一体(cannot be disaggregated)として評価され、その統合的な価値に基づいて巨額の損害賠償が認められた点です。この判決は、デューデリジェンスにおける情報管理体制の構築、秘密保持契約の厳格な運用、そして買収中止後のリスク管理という三つの観点から、実務家に重要な示唆を与えています。今後、ビジネスモデルの複雑化がさらに進む中で、本判決で示された考え方は、M&A実務における営業秘密保護の新たな指針として参照されることになるでしょう。

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