1. はじめに
米国特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)は2025年1月14日、同庁における人工知能(Artificial Intelligence、AI)の活用方針と知財政策への取り組みを包括的に示した「USPTO人工知能戦略(USPTO Artificial Intelligence Strategy)」を発表しました。この戦略は、AIの知財政策、USPTO業務、イノベーションエコシステム全体にわたる包括的なビジョンを示すもので、特に5つの重点分野における具体的な行動計画を詳細に規定しています。
AIはすでに私たちの生活に大きな影響を与えていますが、その進化の速度は加速の一途をたどっています。特に知的財産分野では、年間のAI関連特許出願数が2002年と比較して2倍以上に増加し、2018年からだけでも33%も増加しているという現状があります。このような急速な技術発展に対応するため、USPTOは今回の戦略で、AI技術の責任ある開発と活用を促進しながら、米国のイノベーションを推進する具体的な方向性を示しました。
知的財産の専門家にとって、この戦略の理解は今後ますます重要になってくるでしょう。なぜなら、この戦略は単なる行政機関の方針文書ではなく、AI関連の特許出願・審査プロセスの変更、新たな審査基準の策定、さらには国際的な知財保護の枠組みにまで影響を及ぼす可能性があるからです。特に、生成AI(Generative AI)の発展に伴う発明者性の問題や、AI支援による発明の特許適格性など、実務上の重要な論点に対する指針となることが期待されています。
本記事では、USPTOのAI戦略の核心となる5つの重点分野について、その背景と意義、そして知財実務への影響を詳しく解説していきます。特に、包括的な知財政策の推進から、AI技術基盤の強化、責任あるAI利用の推進、USPTO職員のAI専門性強化、そしてステークホルダーとの協力体制強化まで、各分野における具体的な施策と、実務家が注目すべきポイントを明らかにしていきます。
2. AI戦略の概要と目的
2.1 戦略策定の背景
USPTOによるAI戦略の策定は、バイデン政権が2023年10月に発表した大統領令「安全で、安心で、信頼できる人工知能の開発と利用(Safe, Secure, and Trustworthy Development and Use of Artificial Intelligence)」に呼応する形で進められました。しかし、2025年1月の政権交代により、この大統領令は撤回され、新たに「米国のAIリーダーシップにおける障壁の除去(Removing Barriers to American Leadership in Artificial Intelligence)」という大統領令が発出されています。
このような政策環境の変化にもかかわらず、USPTOのAI戦略の重要性は変わっていません。その背景には、AIの技術革新が加速度的に進展する中で、特許出願におけるAI関連技術の急増があります。特に注目すべきは、AIに関連する特許出願が USPTO の全技術分類の60%以上に及んでいるという事実です。
2.2 USPTOのAIに関するビジョンとミッション
このような背景から、USPTOは今回のAI戦略において、「AIの採用を通じて米国の潜在能力を解き放ち、米国のイノベーション、包括的な資本主義、グローバルな競争力を推進する」(Unleashing America’s potential through the adoption of AI to drive and scale U.S. innovation, inclusive capitalism, and global competitiveness)というビジョンを掲げています。このビジョンは、知的財産保護を通じてイノベーションを促進するというUSPTOの使命と密接に結びついています。
このビジョンを実現するため、USPTOは3つの具体的なミッションを設定しました。第一に、国内外の経済におけるAIの研究開発と商業化の促進、第二に、職員の能力強化とオペレーションの最適化のためのAIの効果的かつ責任ある活用、第三に、データと研究を通じた現在および将来のイノベーションと投資の促進です。
これらのミッションは、相互に関連し合いながら、AIイノベーションの促進と知的財産保護の強化という二つの目標の達成を目指しています。特に注目すべきは、USPTOが単なる規制機関としてではなく、イノベーションの積極的な推進者としての役割を担おうとしている点です。また、AIの開発と活用において、包括性(Inclusiveness)と責任ある利用(Responsible Use)を重視する姿勢も明確に示されています。
2.3 AI戦略の意義と今後の展開
このUSPTOにおけるAI戦略は、技術導入の指針にとどまらず、包括的なイノベーションエコシステムの構築を目指しています。この目標を実現にするため、USPTOは、レポートの中で5つの重点分野を特定し、それぞれについて具体的な行動計画を策定しています。
以下では、これら5つの重点分野について、それぞれの具体的な内容と実務への影響を詳しく見ていきます。
3. 重点分野1:包括的なAI関連知財政策の推進 (“Advance the development of IP policies that promote inclusive AI innovation and creativity.”)
3.1 AI関連の知財政策課題への対応
USPTOは、AI技術の進展に伴う新たな知財政策課題に積極的に対応する姿勢を示しています。特に注目すべきは、生成AIの発展に伴う発明者性(Inventorship)の問題です。AIシステムが発明プロセスでより大きな役割を果たすようになることで、従来の人間発明者を前提とした特許制度との整合性が問われています。
また、AI関連発明における特許適格性(Subject Matter Eligibility)、非自明性(Obviousness)、実施可能要件(Enablement)、明細書の記載要件(Written Description)などの判断基準についても、新たな指針の策定が進められています。特に、AI技術が従来の技術分野の境界を超えて発展していることから、複合的な技術分野にまたがる特許出願の審査基準の明確化が重要な課題となっています。
3.2 経済的・法的研究の実施
USPTOは、AI関連の知財政策が経済活動やイノベーションに与える影響を把握するため、包括的な研究プログラムを展開しています。その中核となるのが、人工知能特許データセット(AI Patent Dataset)を活用した実証研究です。このデータセットを通じて、AI技術の普及状況や特許出願傾向の分析が可能となり、より効果的な政策立案につながることが期待されています。
研究活動では、AI/ET(AI and Emerging Technology)パートナーシップを通じた産学官連携も重視されています。このパートナーシップでは、AI研究者、実務家、政策立案者など、多様なステークホルダーとの対話を通じて、AI技術の発展が知財制度に与える影響を多角的に検討しています。
3.3 包括的なイノベーションの促進
USPTOは、AIイノベーションエコシステムへの参加を促進するため、特に中小企業や個人発明家に向けた支援策を強化しています。具体的な取り組みとして、プレK-12学生(PreK-12 students)向けの教育プログラムや、教師向けの国立夏期教育研修(National Summer Teacher Institute)などが実施されています。
さらに、アカデミアとの連携も重視されており、特に歴史的黒人大学(Historically Black Colleges and Universities)やマイノリティ支援機関(Minority Serving Institutions)との協力を通じて、AIイノベーションの裾野を広げる取り組みを進めています。これらの施策により、より多様な背景を持つ発明者や創作者がAI技術開発に参画することが期待されています。
加えて、USPTOは、AIツールへのアクセス改善にも取り組んでいます。特に、資源の限られた中小企業向けに、AI技術を活用した特許検索ツールやバーチャルアシスタントの提供を計画しています。これにより、特許出願プロセスの効率化と、より質の高い特許出願の促進が期待されています。
4. 重点分野2:AI技術基盤の強化 (Build best-in-class AI capabilities by investing in computational infrastructure,
data resources, and business-driven product development.)
4.1 計算インフラと技術リソースの整備
USPTOは、AIシステムの効果的な運用を支えるため、計算インフラストラクチャ(Computing Infrastructure)の大規模な強化を計画しています。特に、現代のAIシステムが要求する膨大なデータ処理能力に対応するため、クラウドベースの最新技術の導入を進めています。
この取り組みの中核となるのが、実験環境としてのサンドボックスリソースの整備です。これにより、USPTOの職員は新しいAIツールやアプリケーションを安全に検証できるようになります。また、オープンデータプログラムを通じて、研究者や開発者が特許データを機械学習に活用できる環境も整備されています。
4.2 業務効率化のためのAI活用
USPTOは、すでに特許出願の分類にAIシステムを導入し、大きな成果を上げています。2024年6月時点で、特許審査官の約80%が「類似文書検索(More-Like-This-Document)」や「類似性検索(Similarity Search)」などのAI機能を48万件以上のケースで活用しています。これらのツールは、従来のキーワードベースの検索を補完し、より効率的な先行技術調査を可能にしています。
さらに、商標審査や意匠特許審査プロセスへのAI技術の統合も計画されています。USPTOは、人間中心のアプローチ(Human-First Approach)を採用し、AIを審査官の補助ツールとして位置づけることで、審査の質と効率の両立を目指しています。
4.3 ユーザー重視のAIシステム開発
AIシステムの開発において、USPTOは利用者のニーズを最優先に考えています。特に重要視されているのが、アジャイル製品開発(Agile Product Development)の手法を用いた迅速な開発サイクルです。これにより、ユーザーからのフィードバックを素早く反映し、システムの継続的な改善が可能となっています。
また、USPTO最高情報責任者室(Office of the Chief Information Officer)、調達局(Office of Procurement)、特許部門、商標部門などの主要ステークホルダーが緊密に連携し、新しいAI機能の調達と実装を効果的に進めています。このような部門横断的なアプローチにより、ユーザーのニーズに即した機能開発が実現しています。
特筆すべきは、AIシステムの有効性を継続的に評価・改善するための仕組みです。USPTOは、従業員とステークホルダーからの定期的なフィードバックを収集し、それをAIシステムの改善に活用しています。さらに、必要に応じてAIシステムに直接フィードバックループを組み込み、利用パターンやユーザー選好の変化に応じて自動的に最適化される仕組みも導入されています。
5. 重点分野3:責任あるAI利用の推進 (Promote the responsible use of AI within the USPTO and across the broader
innovation ecosystem.)
5.1 USPTOにおけるAI利用の透明性確保
USPTOは、AIの利用において安全性、公平性、透明性、プライバシー、信頼性、説明責任という6つの原則を掲げています。これは、連邦政府機関におけるAIの信頼性ある利用に関する大統領令13960(Executive Order 13960)と、ホワイトハウス科学技術政策局が策定したAI権利章典(Blueprint for an AI Bill of Rights)に基づくものです。
特に重要視されているのが、公平性とデータの適切な取り扱いです。USPTOは、AIシステムの開発・運用において、データの収集、選択、使用が法的・倫理的に適切で透明性のある方法で行われることを保証しています。この取り組みの一環として、行政管理予算局(Office of Management and Budget、OMB)のメモランダムM-24-10に従い、AIシステムの使用に関する定期的な報告と評価を実施することを決定しました。
5.2 イノベーションエコシステムにおける責任あるAI活用
USPTOは、より広範なイノベーションエコシステムにおける責任あるAI活用も推進しています。特に注目されているのが、国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology、NIST)のAIリスク管理フレームワーク(AI Risk Management Framework、AI RMF)との整合性です。このフレームワークは、AIシステムの信頼性を高めるための包括的なアプローチを提供しています。
また、USPTOは法実務におけるAIの役割についても積極的に検討を進めています。2024年4月11日には、「USPTO審判手続におけるAIツールの使用に関するガイダンス(Guidance on Use of Artificial Intelligence-Based Tools in Practice Before the United States Patent and Trademark Office)」を発表し、知的財産実務家がAIツールを利用する際の指針を示しました。このガイダンスは、連邦政府機関として初めてAIの法実務利用に関する具体的な指針を示したものとして注目を集めています。
さらに、USPTOは知的財産権の尊重をAI実践の基本原則として位置づけています。特に、AIの開発・学習段階におけるデータの適切な利用や、AI生成コンテンツの出所の明確化、適切なライセンス取得など、知的財産権に配慮した実践を推奨しています。また、AIを活用したサイバーセキュリティ研究やレッドチーミング(Red-teaming)などの活動において、知的財産権との関係で生じる可能性のある問題についても継続的な検討を行っています。
これらの取り組みは、AIの発展がもたらす機会を最大限に活用しながら、同時に潜在的なリスクを適切に管理するという、USPTOの包括的なアプローチを示しています。特に、知的財産実務家にとっては、AIツールの活用方法や法的リスクの管理について、より具体的な指針が示されたことで、実務上の不確実性が低減されることが期待されています。
6. 重点分野4:USPTO職員のAI専門性強化 (Develop AI expertise within the USPTO’s workforce.)
6.1 審査官向けAIトレーニングの拡充
USPTOは、AI関連技術の特許出願が増加する中、審査官のAI専門知識の強化を重要課題として位置づけています。2024年1月から5月にかけて、USPTOは画像・音声処理から大規模生成AIまで、約19の技術フェア(Tech Fairs)を開催し、各回平均400名以上の職員が参加しました。さらに、職員向けに200を超えるAI関連コースをオンデマンドで提供する技術研修プログラム(Technical Training on Demand)も実施しています。
特に注目すべきは、コア技術としてのAIを審査する審査官だけでなく、全ての技術分野の審査官にAIトレーニングを提供する方針です。これは、AI技術が様々な技術分野に浸透している現状を反映したものです。特許審査技術研修プログラム(Patent Examiner Technical Training Program)と現場体験教育プログラム(Site Experience Education Program)を通じて、審査官は最新のAI技術動向を直接学ぶ機会を得ています。
6.2 組織全体のAI能力向上施策
USPTOは、約14,000名の職員が科学、工学、法律、ITなど多様な専門性を持つ組織であり、それぞれの職務に応じたAI能力の向上が求められています。そのため、組織全体のAI能力向上のための包括的な施策を展開しています。
特に重要な取り組みとして、USPTOは「USPTO AI・新興技術プレミア講演シリーズ(USPTO AI and Emerging Technologies Premier Lecture Series)」を開始。この画期的なプログラムでは、産業界やアカデミアから一流のAI専門家を招き、USPTO職員に重要なAI知識を共有しています。初回の講演には、USPTOと商務省の他部局から4,100名以上の職員が参加し、大きな反響を呼びました。
また、ITスタッフのAI製品開発能力の向上も重点的に進められています。最高情報責任者室(Office of the Chief Information Officer)が主導する研修プログラムでは、AIシステムの作成、トレーニング、デプロイ、管理、ガバナンスに必要なスキルの育成に焦点を当てています。さらに、USPTOは実証されたAI経験と専門知識を持つ人材の採用も積極的に進めています。
加えて、特許審判部(PTAB)および商標審判部(TTAB)の審判官に対しても、AI関連の法的問題や、法実務におけるAIツールの機会とリスクについての研修が提供されています。これにより、AI技術の発展に伴う法的課題に適切に対応できる体制を整えています。
このような包括的なAI能力向上施策により、USPTOは組織全体としてAI時代に対応できる専門性を着実に強化しています。これは、単なる技術研修の提供を超えて、組織文化の変革とAIリテラシーの向上を目指す取り組みとして評価されています。
7. 重点分野5:ステークホルダーとの協力体制強化 (Collaborate with other U.S. government agencies, international partners, and the public on shared AI priorities.)
7.1 政府機関との連携
USPTOは、AIに関する政策立案と実施において、他の政府機関との緊密な連携を進めています。特に商務省内では、国立標準技術研究所(NIST)との協力が重要な位置を占めています。NISTが開発したAIリスク管理フレームワークは、USPTOのAI施策の重要な指針となっています。
また、USPTOは国家科学技術会議(National Science and Technology Council)の機械学習・AI小委員会や、国家IT研究開発プログラム(National IT R&D Program)のAI研究開発省庁間ワーキンググループなど、重要な政府横断的な委員会にも参加しています。さらに、食品医薬品局(FDA)とは医薬品・バイオテクノロジー分野で、司法省反トラスト局および連邦取引委員会(FTC)とは競争法の執行に関して、それぞれ長年の協力関係を維持しています。
7.2 国際パートナーとの協力推進
国際協力の分野では、USPTOは五大特許庁(IP5)におけるAIタスクフォースを通じて、AIに関する協力を推進しています。このタスクフォースは、特許システムにおけるAIの影響、共通の課題の理解、技術的能力の向上、産業界からのフィードバック、AIに関する政策展開についての意見交換の促進などを目的としています。
2024年9月には、G7メンバー国の特許庁長官と欧州特許庁を招いて「AI・知的財産に関する国際対話(International Dialogue on Artificial Intelligence and Intellectual Property)」を開催しました。この会議では、AIの発展が知的財産制度に与える影響について、グローバルな視点での議論が行われました。
7.3 産業界・学術界との協働
USPTOは2022年に設立したAI/ETパートナーシップを通じて、産業界や学術界との協力を強化しています。2024年5月までに、アレクサンドリア、ダラス、サンノゼ、ロサンゼルス、およびオンラインで開催されたイベントには、4,000人以上が参加しました。これらのイベントでは、AI研究者、実務弁護士、経済学者、法学者などの専門家が一堂に会し、AIを活用したバイオテクノロジーのイノベーションからUSPTOデータのAI研究への活用まで、幅広いトピックについて議論が行われています。
また、クローク訪問研究員プログラム(Croak Visiting Scholars Program)を通じて、アカデミアとの連携も深めています。このプログラムは、新しい学際的なAI研究イニシアチブを促進することを目的としています。さらに、中小企業技術革新研究(SBIR)プログラムや中小企業技術移転(STTR)プログラムを通じて、基礎研究から実用化までの技術移転の支援も行っています。
これらの包括的な協力体制は、AIがもたらす課題と機会に対する多角的な視点を確保し、より効果的な政策立案と実施を可能にしています。特に、AI技術の急速な進展に対応するため、ステークホルダーとの継続的な対話と協力は、今後ますます重要性を増すと考えられています。
8. 結論
USPTOのAI戦略は、急速に発展するAI技術が知的財産分野にもたらす変革に対する包括的な対応指針を示しています。包括的な知財政策の推進、AI技術基盤の強化、責任あるAI利用の推進、職員のAI専門性強化、そしてステークホルダーとの協力体制強化という5つの重点分野を通じて、USPTOは単なる規制機関としてではなく、イノベーションエコシステムの積極的な推進者としての役割を果たそうとしています。この戦略の成功は、知的財産制度の適切な進化とAIイノベーションの健全な発展の両立に大きく貢献すると考えられ、知的財産の専門家は今後の展開に注目していく必要があります。