はじめに
特許無効化戦略において、当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)は強力な武器として定着していますが、その活用には重要な制限が伴います。この制限が「IPR禁反言」(IPR estoppel)です。2025年5月7日、連邦巡回控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Federal Circuit、CAFC)はIngenico Inc. v. IOENGINE, LLC事件において、この禁反言の範囲に関する重要な判断を下しました。この判決は、IPR禁反言がシステム先行技術(system prior art)に及ぶかという、地方裁判所間で長く分かれていた解釈に終止符を打つものです。
本稿では、CAFCの画期的な判断の背景、法的分析、そして特許実務への影響について詳細に解説します。IPR戦略を再考する必要がある特許権者と被疑侵害者の双方にとって、この判決が持つ意味を多角的に検討していきます。
システム先行技術とは何か
まずは、本件を理解するためには、「システム先行技術」(system prior art)の概念を明確にしておく必要があります。システム先行技術とは、物理的な製品、装置、またはシステムそのものを指し、特許文献や印刷刊行物とは区別されます。Ingenico事件では、DiskOnKeyと呼ばれるUSBデバイスとそのファームウェアアップグレーダーがシステム先行技術として主張されました。
システム先行技術は米国特許法第102条に基づく先行技術の種類の一つであり、「公然使用されていた」(in public use)または「販売されていた」(on sale)などの形態で無効理由となり得ます。しかし、IPRでは第311条(b)項の制限により、このようなシステム先行技術を直接的な無効理由として主張することはできません。
重要なのは、多くの場合、システム先行技術に関連する印刷刊行物(取扱説明書、データシート、マーケティング資料など)が存在することです。これらの印刷刊行物はIPRで使用できますが、それらが製品の全ての側面を完全に開示しているとは限りません。この「開示のギャップ」が、IPR後の訴訟戦略において重要な意味を持つことになります。
IPR禁反言の法的枠組み
次に、IPR禁反言を理解するためには、その法的根拠となる条文と、地方裁判所における解釈の分岐について知る必要があります。
35 U.S.C. § 315(e)(2)の規定
IPR禁反言の基礎となるのは米国特許法(35 U.S.C.)第315条(e)(2)項です。この条項は以下のように規定しています:
IPRの請求人は、IPRの結果として最終決定が下された特許クレームに関して、「IPRにおいて提起した、または合理的に提起し得たいかなる根拠(ground)に基づいても」、その無効を地方裁判所や国際貿易委員会(ITC)の手続で主張することができない。
この規定の解釈において重要なのは、第311条(b)項との関係です。第311条(b)項はIPRで主張できる無効理由を「特許または刊行物からなる先行技術のみに基づく」ものに限定しています。つまり、IPRでは「特許文献」(patents)と「印刷刊行物」(printed publications)のみが先行技術として認められるのです。
この2つの条文の関係から生じる問いは、「IPRで提起できない種類の先行技術(システム先行技術など)に基づく無効の主張も禁反言の対象となるのか」というものでした。
禁反言の解釈における地方裁判所の分裂
この問いに対する地方裁判所の解釈は大きく分かれていました。Prolitec Inc. v. ScentAir Techs., LLC事件(デラウェア地裁、2023年)で整理されたように、裁判所の見解は主に2つに分かれていました:
広義の解釈: 「根拠」(ground)を基礎となる法的主張と捉え、特許・刊行物と「実質的に同じ」システム先行技術も禁反言の対象とする立場
狭義の解釈: 「根拠」を無効の主張に使用される特定の特許・刊行物と捉え、システム先行技術は禁反言の対象外とする立場
この解釈の違いは、IPR後の地方裁判所訴訟における防御戦略に大きな影響を与えていました。広義の解釈を採用する裁判所では、IPR請求人の無効主張の選択肢が大きく制限される一方、狭義の解釈を採用する裁判所では、システム先行技術に基づく無効主張という「裏口」が残されることになっていたのです。
Ingenico Inc. v. IOENGINE, LLC事件の概要
CAFCが判断を下したIngenico事件の背景と、裁判所の分析を見ていきましょう。
事案の背景
IOENGINEはUSBフラッシュドライブに関連する米国特許第9,059,969号と第9,774,703号を保有しており、これらの特許権侵害を主張して提訴しました。これに対してIngenicoは当該特許に対するIPRを請求し、一部のクレームについて無効の判断を勝ち取りました。
IPRを生き残ったクレームについては、デラウェア地方裁判所での訴訟が継続しました。この訴訟において、Ingenicoは「DiskOnKeyシステム」と呼ばれる先行技術のUSBデバイスとそのファームウェアアップグレーダーに基づいて、残りのクレームも新規性を欠く(anticipated)または自明(obvious)であると主張しました。
重要なのは、このDiskOnKeyシステムが「物理的なシステム先行技術」であり、その機能の一部がReadme説明書やスクリーンショットなどの印刷刊行物に記載されていたという点です。IOENGINEは、これらの印刷刊行物がIPRで「合理的に提起し得た」ものであるため、関連するシステム先行技術に基づく無効主張も禁反言の対象になると主張しました。
連邦巡回控訴裁判所の判断
CAFCは、デラウェア地裁の判断を支持し、IOENGINEの主張を退けました。CAFCの分析の中心は「根拠」(ground)という用語の解釈でした。裁判所は以下のように判断しました:
「第315条(e)(2)項の下で排除される『根拠』とは、特許文献または印刷刊行物に基づく無効理論のみである。IPR禁反言は、請求人が『他者によって知られていた、または使用されていた』『公然使用されていた』『販売されていた』などのIPRでは提起できない根拠を地方裁判所で主張することを妨げない。」
CAFCはさらに重要な点を強調しました:
「議会は、請求人が『そのIPRで提起した、または合理的に提起し得たいかなる先行技術に基づいても』地方裁判所でクレームの無効を主張できないと規定することもできたが、そうしなかった。代わりに、議会は『根拠』に基づく主張を禁じたのである。」
このように、CAFCは「根拠」と「先行技術」を明確に区別し、IPR禁反言の範囲を限定的に解釈しました。さらに重要なのは、裁判所が以下のように述べた点です:
「IPR禁反言は、請求人がIPRで提起できない根拠を主張する際に、IPRで提起した、または提起し得た同じ特許や印刷刊行物を証拠として利用することを妨げるものではない。」
この判断により、IPR請求人は、IPRで使用した(または使用し得た)特許文献や印刷刊行物を、システム先行技術の存在や機能を証明するための証拠として地方裁判所で使用できることが明確になりました。
判決の実務的影響
Ingenico判決は、IPRと地方裁判所訴訟の両方に重要な影響を及ぼします。その影響を3つの観点から検討します。
まず、裁判所での訴訟戦略への影響を考えてみましょう。
訴訟戦略への影響
本判決により、IPRを請求した被疑侵害者は、地方裁判所でシステム先行技術に基づく無効主張を自由に行えることが確認されました。これには重要な戦略的意味があります:
二段階の無効化戦略の有効性: IPRで特許文献・印刷刊行物に基づく主張を行い、地方裁判所でシステム先行技術に基づく主張を行うという「二段階戦略」の有効性が確認されました。
システム先行技術の新たな重要性: 物理的な装置、販売履歴、公然使用の証拠など、システム先行技術の収集と保全がより重要になります。
特許権者の対応策: 特許権者は、潜在的なシステム先行技術を早期に特定し、これに対応する無効化防御戦略を準備する必要があります。
特に、被疑侵害者にとって重要なのは、IPRの請求時に、特許文献と印刷刊行物だけでなく、関連するシステム先行技術も同時に特定・分析しておくことです。IPRで一部のクレームが無効とならなかった場合でも、地方裁判所でシステム先行技術に基づく「第二の機会」があることを念頭に置いた戦略立案が求められます。
IPR実務への影響
Ingenico判決はIPR実務にも重要な影響を与えます:
USPTOの裁量的拒絶への影響: 米国特許商標庁(USPTO)のFintiv基準に基づく裁量的拒絶の判断にも影響を与える可能性があります。地方裁判所でのシステム先行技術による無効化の可能性が明確になったことで、IPRと地方裁判所訴訟の重複性の評価が変わる可能性があります。
特許文献・印刷刊行物の戦略的選択: IPR請求人は、後の地方裁判所訴訟でシステム先行技術の存在・機能を証明するために使用できる特許文献・印刷刊行物を戦略的に選択する必要があります。
PREVAIL法案との関係: 現在議会で検討されているPREVAIL法案(Promoting and Respecting Economically Vital American Innovation Leadership Act)が、この判断を覆す方向で禁反言規定を修正する可能性も注視する必要があります。PREVAIL法案は、IPR禁反言に関して重要な変更を提案しています:
- 禁反言の適用時期の変更: 現行法では最終書面決定時に禁反言が適用されますが、PREVAIL法案ではIPR申請時に前倒しされます連続的な特許無効チャレンジの制限: 同一特許に対する繰り返しのIPR請求を防止する狙いがあります包括的な主張の促進: 請求人は追加クレームの侵害で後に訴えられない限り、単一の申請で最善の主張を提示することが求められます禁反言の範囲拡大: 参加請求人を含め、IPRプロセス中または申請時に提起した、または合理的に提起できたすべての主張が対象となります
これらの変更が実現すれば、Ingenico判決で認められたシステム先行技術に基づく「第二の機会」が制限される可能性があり、特許実務に大きな影響を与えるでしょう。
特許実務家は、IPRの請求が拒絶された場合や、一部のクレームが無効とならなかった場合の「プランB」として、システム先行技術に基づく地方裁判所での無効主張の可能性を常に視野に入れるべきでしょう。
特許実務家向け戦略的考察
Ingenico判決を踏まえた特許実務家の戦略的考察として、以下の点が重要です:
IPRと地方裁判所訴訟の戦略的組み合わせ: 両方の手続きの長所を組み合わせた総合的な無効化戦略の構築が必要です。IPRは特許文献・印刷刊行物に基づく無効化に適し、地方裁判所はシステム先行技術に基づく無効化に適しています。
システム先行技術の調査と認証の重要性: システム先行技術の存在と機能を証明するための証拠(販売記録、ユーザーマニュアル、証人証言など)の早期収集と保全が重要になります。
将来の法改正の可能性と対応: PREVAIL法案などの立法動向を注視し、禁反言規定が変更された場合の影響を予測し、対応策を検討しておく必要があります。
特に日本企業の米国特許戦略においては、システム先行技術の調査と保全の重要性が高まることを認識すべきでしょう。米国での特許訴訟に巻き込まれる可能性がある日本企業は、自社製品や競合製品の販売履歴、ユーザーマニュアル、社内文書などを、将来の証拠として活用できるよう適切に管理することが求められます。
まとめ
Ingenico判決は、IPR禁反言の範囲に関する分かれていた解釈に終止符を打ち、システム先行技術に基づく無効主張は禁反言の対象外であることを明確にしました。CAFCは「根拠」を無効理論と捉え、IPRで提起できない種類の無効理論(システム先行技術に基づくもの)は禁反言の対象にならないと判断しました。
この判決により、IPRを請求した後でも、被疑侵害者は地方裁判所でシステム先行技術に基づく「第二の機会」を得ることができます。また、IPRで使用した(または使用し得た)特許文献や印刷刊行物を、システム先行技術の存在・機能を証明するための証拠として地方裁判所で利用することも可能です。
特許実務家にとって、この判決は無効化戦略の選択肢を広げるものであり、IPRと地方裁判所訴訟の両方の特性を活かした総合的な戦略の構築が求められるようになります。特に、システム先行技術の調査・保全の重要性が高まり、将来の訴訟に備えた証拠管理がより重要になるでしょう。
立法による変更の可能性も残されていますが、少なくとも現時点では、システム先行技術はIPR禁反言の嵐から守られることになりました。特許権者と被疑侵害者の双方が、この新たな法的枠組みを理解し、それぞれの戦略を再考することが求められています。