はじめに
特許侵害訴訟において、被疑侵害者が利用できる抗弁の選択肢は限られています。特に、2017年の最高裁判所SCA Hygiene判決により、ラッチーズ(laches)の抗弁が法定の6年間の期間制限内では適用できなくなって以降、衡平法上の禁反言(equitable estoppel)抗弁の重要性が格段に高まっています。
ラッチーズ(laches)とは、特許権者が権利行使を不当に遅延させた場合に、被疑侵害者が主張できる衡平法上の抗弁です。この抗弁は、特許権者の不当な遅延により被疑侵害者が不利益を被ることを防ぐ目的で認められてきました。しかし、SCA Hygiene判決により、特許法第286条の6年間の損害賠償期間制限内では、ラッチーズ抗弁は原則として適用できないとされました。この判決により、被疑侵害者は他の抗弁手段を模索する必要に迫られ、衡平法上の禁反言抗弁の戦略的重要性が飛躍的に高まったのです。
衡平法上の禁反言抗弁は、特許権者の誤解を招く行為や沈黙により、被疑侵害者が特許権者は権利行使しないと合理的に推測し、その推測に基づいて行動した結果、損害を被る立場に置かれた場合に成立する抗弁です。しかし、この抗弁の成立要件、特に「信頼」(reliance)要件の立証は決して容易ではありません。
2025年6月9日、連邦巡回控訴裁判所(CAFC)が下した Fraunhofer-Gesellschaft zur Förderung der angewandten Forschung e.V. v. Sirius XM Radio Inc. 判決は、この信頼要件に関する重要な判断基準を示しました。本判決は、単なるビジネス上の実用主義では信頼要件を満たさないという明確な指針を提供し、実務家にとって極めて重要な意義を持つものです。
ここで言う「単なるビジネス上の実用主義」とは、特許権者の行為や沈黙とは無関係に、純粋に経済的合理性や事業効率性のみに基づいて行われる企業の意思決定を指します。つまり、被疑侵害者が「特許権者は権利行使しないだろう」という推測に基づいて行動したのではなく、単に「この技術を使用することがビジネス上最も合理的だから」という理由で行動した場合、それは信頼要件を満たさないということです。衡平法上の禁反言抗弁における信頼要件は、特許権者の誤解を招く行為に対する具体的で合理的な信頼が存在し、その信頼に基づいて行動したことの立証を求めています。
衡平法上の禁反言抗弁の基本要件
衡平法上の禁反言抗弁は、Ferring B.V. v. Allergan, Inc. 判決で確立された3つの要素から構成されています。
三つの必要要素
第一に、誤解を招く行為(misleading conduct)です。特許権者が被疑侵害者に対し、特許権を行使する意図がないと合理的に推測させるような誤解を招く行為を行ったことが必要です。これは積極的な行為だけでなく、沈黙による場合も含まれます。
第二に、信頼(reliance)です。被疑侵害者が特許権者の誤解を招く行為に実際に信頼し、その信頼に基づいて何らかの行動を取ったことが立証されなければなりません。
第三に、損害(material prejudice)です。特許権者による権利行使を許可することにより、被疑侵害者が重大な損害を被る立場に置かれることが必要です。
SCA Hygiene判決後の重要性の高まり
SCA Hygiene判決により、ラッチーズ抗弁が制限された結果、衡平法上の禁反言抗弁は被疑侵害者にとって数少ない有効な抗弁の一つとなりました。しかし、この抗弁の成立要件は厳格であり、特に信頼要件の立証は高いハードルとなっています。
Fraunhofer v. Sirius XM事件の背景
事実関係の概要
本件は、ミュンヘンに拠点を置くドイツの非営利研究機関であるFraunhoferと、北米の主要な衛星ラジオ放送事業者であるSirius XM Radio Inc.(SXM)との間の特許侵害訴訟です。争点となった特許は、現在は期限切れとなっている米国特許第6,314,289号、第6,931,084号、第6,993,084号、第7,061,997号の4件です。
1998年、FraunhoferはWorldSpace International Network, Inc.に対し、マルチキャリア変調(MCM)技術に関する特許について、サブライセンス権を含む全世界独占的な取消不能ライセンスを付与しました。同年、FraunhoferはXM Satellite Radioと協力して米国向けの衛星ラジオシステムを開発しました。MCM技術の使用には特許ライセンスが必要であったため、FraunhoferはXMに対しWorldSpaceからサブライセンスを取得するよう要求し、XMは「取消不能」なサブライセンスを取得しました。
2008年、XMはSirius Satellite Radio, Inc.と合併してSXMを設立しました。SXMは技術的に互換性のない「ハイバンド」システム(XM DARS System)と「ローバンド」システムの両方を運用することになりました。ハイバンドとローバンドは、それぞれ異なる周波数帯域を使用するシステムで、受信機の物理的な違いにより技術的に互換性がありませんでした。同年、WorldSpaceが破産を申請し、2010年に破産裁判所においてFraunhoferとのマスター契約を拒絶しました。
Fraunhoferは、この契約拒絶により全ての特許権が自社に復帰したと主張しましたが、2015年まで5年間以上にわたってSXMに対し何の権利行使も行いませんでした。2017年2月22日、Fraunhoferはデラウェア州連邦地方裁判所に特許侵害訴訟を提起しました。
地方裁判所の判断
デラウェア州連邦地方裁判所のJoseph F. Bataillon上席判事は、Fraunhoferの5年間の沈黙が誤解を招く行為に該当し、SXMがその沈黙に信頼してハイバンドシステムへの移行を決定し、その結果として数億ドルの投資を行ったと認定しました。地方裁判所は、SXMの移行決定は「ビジネス上の実用主義」に基づくものであったと述べ、衡平法上の禁反言抗弁の成立を認めて略式判決を下しました。
連邦巡回控訴裁判所への控訴
Fraunhoferは地方裁判所の判断を不服として連邦巡回控訴裁判所に控訴しました。控訴審はLourie判事、Dyk判事、Reyna判事の3名の判事により構成され、主に信頼要件の立証が争点となりました。
「誤解を招く行為」要件の分析
特許権者の沈黙が誤解を招く行為となる条件
連邦巡回控訴裁判所は、誤解を招く行為の成立について地方裁判所の判断を支持しました。裁判所は、「一般的に、沈黙だけでは禁反言を生じさせることはないが、明確な発言義務がある場合、または特許権者の『継続的な沈黙』が被疑侵害者の特許権者が侵害者の行為を黙認したという推測を補強する場合は例外である」と述べました。
本件における5年間の沈黙の評価
裁判所は、Fraunhoferが2010年から2015年まで5年間以上にわたって沈黙を続けたことについて、以下の要因を考慮して誤解を招く行為に該当すると判断しました:
- Fraunhoferは1998年以降、XM DARS Systemが特許侵害の可能性があることを知っていた
- Fraunhofer自身が侵害とされるシステムの開発に協力していた
- Fraunhoferは長年にわたってこのシステムの成功を公に宣伝していた
- 2010年以降、Fraunhoferは特許権が自社に復帰したと主張していたにもかかわらず、5年間沈黙を続けた
協力関係と知識の存在の重要性
裁判所は、High Point SARL v. Sprint Nextel Corp. 判決を引用し、特許権者が被疑侵害システムの構築に積極的に関与していた場合、その後の沈黙が誤解を招く行為に該当する可能性が高いと判断しました。本件では、Fraunhoferが侵害とされる機能を自ら構築していたという事実が、誤解を招く行為の認定において重要な要素となりました。
「信頼」要件における重要な判断基準
単なるビジネス上の実用主義では不十分
連邦巡回控訴裁判所の最も重要な判断は、信頼要件に関するものでした。裁判所は、SXMの代表者の証言を詳細に検討し、ハイバンドシステムへの移行決定がFraunhoferの沈黙に対する信頼ではなく、純粋にビジネス上の考慮に基づいていたことを認定しました。
SXMの代表者は証言において、移行決定の理由について以下のように述べていました:
「両システムは同等でした。サービスの可用性、消費者の受け入れ、音質、チャンネル数など、どの点においても明確な差別化はありませんでした。実際には、どちらの人口を移行させるのが最も簡単かということに帰着しました。35パーセントを65パーセントに移行させる方が、その逆よりも簡単だったのです。本当にそれだけのことでした。」
「考慮」と「影響」の立証必要性
裁判所は、Aspex Eyewear Inc. v. Clariti Eyewear, Inc. 判決を引用し、信頼を立証するためには、被疑侵害者が 「少なくとも特許権者の沈黙や不作為を考慮し、そのような考慮が被疑侵害システムへの移行決定に影響を与えた」 ことを立証する必要があると明確に述べました。
この基準は、単に特許権者の沈黙と被疑侵害者の行動が時系列的に関連しているだけでは不十分であり、被疑侵害者が実際に特許権者の行為を考慮に入れて意思決定を行ったことの立証を求めるものです。
連邦巡回控訴裁判所の判断のポイント
信頼の立証に関する厳格な基準
連邦巡回控訴裁判所は、信頼要件について極めて厳格な基準を適用しました。裁判所は、 「SXMが正確に代替手段を証明する必要はない、または全ての営業判断が誤解を招く行為への信頼に基づいている必要はない」 としながらも、 「SXMは少なくともFraunhoferの沈黙や不作為を考慮し、そのような考慮が被疑侵害ハイバンドシステムへの移行決定に影響を与えたことを立証しなければならない」 と明確に述べました。
証言内容の詳細な検討
裁判所は、SXMの企業代表者の証言を詳細に分析し、移行決定の動機がFraunhoferの沈黙に対する信頼ではなく、独立したビジネス判断であったことを認定しました。この分析は、Hemstreet v. Computer Entry Systems Corp. 判決を引用し、「被疑侵害者の活動が特許権者の想定される行為への信頼ではなく、独自のビジネス判断に基づいていた場合」には信頼要件が満たされないという原則を確認するものでした。
状況証拠の限界
裁判所は、状況証拠による信頼の立証可能性を認めつつも、 「事実認定者が信頼を認定することを許可する十分な状況証拠があるかもしれないが、既存の記録は略式判決に必要な強制的な認定を行うものではない」 と判断しました。この判断は、状況証拠だけでは略式判決段階での信頼要件の立証は困難であることを示しています。
「損害」要件と信頼との因果関係
信頼と損害の関連性の必要性
連邦巡回控訴裁判所は、損害要件について重要な指摘を行いました。裁判所は、ABB Robotics, Inc. v. GMFanuc Robotics Corp. 判決を引用し、 「経済的損害が認められなかった事例は、資本投資の不足のためではなく、被疑侵害者が支出の増加が特許権者の行為と何らかの関連があることを証明できなかったため」 であると述べました。
代替手段の存在の重要性
裁判所は、SXMが侵害しないローバンドシステムという実行可能な代替手段を有していたことを認定しました。この事実は、もしSXMが信頼を立証できれば、損害要件の成立を支持する重要な要素となります。
将来の立証可能性
興味深いことに、裁判所は将来の立証可能性について言及しました。 「SXMが審理においてFraunhoferの誤解を招く行為に信頼したことを立証できれば、そのような信頼によってSXMが損害を受けたことについて重要な事実の真正な争いはない」 と述べ、信頼要件さえ立証できれば損害要件の成立は比較的容易であることを示唆しました。
実務への影響と戦略的考慮事項
被疑侵害者側の立証戦略
本判決は、被疑侵害者側の立証戦略に重要な示唆を与えています。衡平法上の禁反言抗弁を成功させるためには、以下の点が重要です:
意思決定過程の文書化:企業は重要なビジネス判断を行う際、その決定過程を詳細に文書化し、特許権者の行為や沈黙をどの程度考慮したかを明確に記録する必要があります。
証人の準備:企業代表者の証言は極めて重要です。証人は、意思決定において特許権者の行為をどのように考慮したかを具体的に証言できるよう準備する必要があります。
状況証拠の収集:直接証拠が不足している場合、状況証拠による立証が重要になります。特許権者との過去のコミュニケーション、業界慣行、類似事例などの証拠を体系的に収集することが必要です。
特許権者側の対応策
特許権者側にとっても、本判決は重要な指針を提供しています:
早期の権利行使:長期間の沈黙は誤解を招く行為と認定されるリスクが高いため、特許権者は権利侵害を発見した場合、速やかに権利行使を検討する必要があります。
明確なコミュニケーション:特許権者は、ライセンシーや潜在的な侵害者に対し、自社の権利行使意図について明確にコミュニケーションを取ることが重要です。
協力関係の管理:被疑侵害者との協力関係がある場合、その関係が将来の権利行使に与える影響を慎重に検討する必要があります。
証拠収集と証言準備の重要性
本判決は、証拠収集と証言準備の重要性を改めて浮き彫りにしました。特に、企業の意思決定過程に関する証拠は、衡平法上の禁反言抗弁の成否を左右する決定的な要素となります。
法務部門は、重要なビジネス判断に際して、その決定過程を詳細に記録し、将来の訴訟に備える必要があります。また、証人となる可能性のある経営陣や技術者に対し、適切な証言準備を行うことが極めて重要です。
まとめ
Fraunhofer v. Sirius XM判決は、衡平法上の禁反言抗弁における信頼要件の立証基準について重要な指針を示しました。連邦巡回控訴裁判所は、単なるビジネス上の実用主義では信頼要件を満たさないという明確な判断基準を確立し、被疑侵害者は特許権者の行為を実際に「考慮」し、その考慮が意思決定に「影響」を与えたことを立証する必要があることを明確にしました。
この判決は、SCA Hygiene判決以降、重要性を増している衡平法上の禁反言抗弁の成立要件を厳格に解釈するものであり、実務家にとって極めて重要な意義を持ちます。被疑侵害者側は、より厳格な立証基準に対応した証拠収集と証言準備が必要となり、特許権者側は早期の権利行使と明確なコミュニケーションの重要性を再認識する必要があります。
今後の実務においては、企業の意思決定過程の文書化と、証人の適切な準備が衡平法上の禁反言抗弁の成否を左右する決定的な要素となるでしょう。本判決が示した厳格な基準は、特許訴訟実務に長期的な影響を与えることが予想されます。