A legal document discussing a CAFC ruling on CRISPR patent disputes, highlighting the evolving standards of invention concept and patent requirements in biotechnology

CRISPR特許紛争で特許の『概念』要件が明確化:発明の概念に『成功の確信』は不要

はじめに

2025年5月12日、連邦巡回裁判所(United States Court of Appeals for the Federal Circuit、CAFC)は、バイオテクノロジー分野で最も注目される特許紛争の一つにおいて、発明の概念(conception)に関する重要な法的指針を示しました。The Regents of the University of California v. Broad Institute, Inc.(事件番号2022-1594, 2022-1653)において、裁判所は特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、PTAB)が発明の概念と実施化(reduction to practice)の法的基準を混同したとして、部分的に破棄差戻しの判決を下しました。

この判決は、発明者が「発明が機能すると知っていること」は概念証明の要件ではないという明確な原則を確立し、特許実務における発明概念の理解に新たな明確性をもたらすものです。特に、AIA以前の先発明主義の下で重要となる発明概念の法理において、不確実性の高いバイオテクノロジー分野の研究開発の初期段階での発明記録や特許戦略に大きな影響を与える可能性があります。

本稿では、この画期的な判決の詳細と、今後の特許実務への影響について深く掘り下げて解説します。CRISPR技術をめぐる激しい特許競争の背景から、CAFCによる法的基準の明確化、そして実務家が知っておくべき留意点まで、包括的に検討していきます。

CRISPR特許紛争の背景と当事者

本事件は、2012年の出願(AIA施行前)に関する先発明主義(first-to-invent system)下でのインターフェアレンス手続きとして審理されました。現在のアメリカは先願主義(first-to-file system)を採用していますが、この事件は「誰が最初に発明したか」を争う従来の特許制度の下で争われた貴重な事例です。

争点となった技術:真核細胞におけるCRISPR-Cas9システム

本訴訟の中心となったのは、シングルガイドRNA(single-guide RNA)を用いた遺伝子編集技術です。CRISPR-Cas9システムは、もともと原核細胞(prokaryotic cells)である細菌の免疫防御システムとして自然界に存在していました。しかし、この技術を真核細胞(eukaryotic cells)、すなわち哺乳動物や植物の細胞における遺伝子編集に応用することは、技術的に大きな挑戦でした。

従来のCRISPR-Cas9システムでは、DNA編集のガイド役として2つの異なるRNA分子(crRNAとtracerRNA)が必要でした。しかし、シングルガイドRNAの発明により、これら2つの機能を1つのRNA分子で実現することが可能になり、遺伝子編集システムが大幅に簡素化されました。この技術革新は、後にノーベル賞受賞技術となり、バイオテクノロジー業界に革命をもたらしました。

原核細胞での成功が確認されていたCRISPR-Cas9システムですが、真核細胞での応用には多くの未知数がありました。細胞核の存在、より複雑な細胞構造、異なる生化学的環境など、原核細胞とは大きく異なる条件下での機能性は保証されていませんでした。

主要当事者の発明活動

カリフォルニア大学側(Regents)の研究チームは、2012年3月1日という早い段階から、真核細胞におけるCRISPR-Cas9システムの応用に向けた具体的な研究計画を立てていました。エマニュエル・シャルパンティエ(Emmanuelle Charpentier)、ジェニファー・ダウドナ(Jennifer Doudna)、マーティン・イネック(Martin Jinek)らが率いるこの研究チームは、2012年3月1日にイネックが実験ノートに記録し、ダウドナとの電子メール交換で、哺乳動物細胞での遺伝子編集システムとその実験計画を詳細に描写していました。

これに対して、ブロード研究所側(Broad)は、2012年10月5日に実際の実施化(actual reduction to practice)を達成したとされています。この実施化は、学術誌Scienceへの論文投稿によって裏付けられており、真核細胞におけるCRISPR-Cas9システムの実際の機能を実証したものでした。

両者の研究タイムラインを見ると、Regentsが概念形成と初期の研究計画において先行していたものの、Broadが実際の実施化において先んじていたという構図が浮かび上がります。この時間的なずれが、今回の特許紛争の核心的な争点となりました。

2012年6月には、Regentsの研究者たちがカリフォルニア大学バークレー校での会議でシングルガイドRNA CRISPR-Cas9システムについて公開発表を行いました。この発表を受けて、Broadを含む他の研究機関の科学者たちも、真核細胞での遺伝子編集システムの開発に取り組み始めました。

特許審判部(PTAB)の判断とその問題点

PTABの誤った法的基準適用

PTABは、Regentsが真核細胞でのCRISPR-Cas9システムの機能について十分な確信を持っていなかったことを理由に、同チームが適切な発明概念を形成していなかったと判断しました。この判断の根拠として、PTABはRegentsの科学者たちが実験過程で表明した不確実性や疑問の声を重視しました。

具体的には、PTABはRegentsの科学者たちが「発明が機能すると知っていること」を概念証明の要件として求めました。これは、研究者たちの実験記録に現れた「実験が成功したかどうかについての不確実性を示す発言」や「CRISPR-Cas9システムの修正を示唆する発言」を、概念の不完全性を示す証拠として解釈したものでした。

PTABはまた、Regentsの科学者たちが発明の「仕組み(mechanics)」を理解していただけでは不十分であり、「機能する(operative)発明」の概念を持っていなければならないと判断しました。この解釈により、実験における困難や疑問の表明が、概念の不完全性を示す決定的な証拠として扱われることになりました。

Hitzeman v. Rutter判例の誤用

PTABは、Hitzeman v. Rutter, 243 F.3d 1345 (Fed. Cir. 2001)の判例を引用し、「それまで達成されたことのない結果への単なる希望」では概念の成立に不十分であるとしました。しかし、CAFCは、PTABがこの判例を誤って適用したと指摘しました。

Hitzeman事件では、発明者が特定の細胞内プロセスの結果を特許請求の範囲に記載していたものの、その結果を達成する方法が不明でした。これは「結果指向のクレーム(result-oriented claim)」の典型例でした。

一方、本CRISPR事件では、特許請求の範囲はCRISPR-Cas9の特定の既知機能を記載しており、その機能の結果ではなく機能そのものを対象としています。つまり、「機能指向のクレーム(function-oriented claim)」であり、Hitzemanとは本質的に異なる性質を持っていました。

CAFCは、PTABが 「単なる希望」と「具体的な発明計画」を適切に区別できていなかったと批判しました。Regentsの研究者たちは、具体的な実験計画、必要な構成要素、実施手順を詳細に記録しており、これはHitzemanで問題とされた「単なる希望」とは明らかに異なるものでした。

さらに、PTABは通常の技術レベル(ordinary skill in the art)での実施可能性を適切に考慮していませんでした。発明概念の成立要件として重要なのは、通常の技術者が追加的な実験や研究なしに発明を実施化できるかどうかであり、発明者自身が成功を確信しているかどうかではありません。

連邦巡回裁判所による法的基準の明確化

発明概念の正しい定義と適用

CAFCは、確立された判例法に基づいて発明概念の正しい定義を再確認しました。Burroughs Wellcome Co. v. Barr Lab’ys, Inc., 40 F.3d 1223, 1228 (Fed. Cir. 1994)を引用し、概念とは 「発明者の心の中に形成される、完全で機能的な発明の明確で永続的なアイデア」 であると定義されています。

重要なのは、概念は「通常の技術で実施化可能な程度まで発明者の心の中で明確に定義されている」状態で完成するということです。これは、広範囲な研究や実験を必要とせず、通常の技術レベルがあれば実施化できる程度の明確性を意味します。

CAFCは、University of Pittsburgh of Commonwealth System of Higher Education v. Hedrick, 573 F.3d 1290, 1299 (Fed. Cir. 2009)Applegate v. Scherer, 332 F.2d 571, 573 (CCPA 1964)を引用し、 「発明者が発明の機能を知っている必要はない」 という原則を再確認しました。発明が機能するという知識は、必然的に実際の実施化にのみ基づくものであり、概念段階では要求されません。

概念と実施化の明確な区別

CAFCは、発明プロセスには明確に区別される3つの段階があることを強調しました。Mahurkar v. C.R. Bard, Inc., 79 F.3d 1572, 1577 (Fed. Cir. 1996)に基づき、これらの段階は以下の通りです:

第1段階:概念(Conception) – 発明者の心の中で完全で機能的な発明のアイデアが形成される段階。この段階では、発明が実際に機能するかどうかの確実な知識は必要ありません。

第2段階:合理的勤勉性(Reasonable Diligence) – 概念から実施化に向けて継続的で合理的な努力を行う段階。この期間中の一時的な中断や困難は、概念の有効性に影響しません。

第3段階:実施化(Reduction to Practice) – 実際に発明を具現化し、その機能を実証する段階。構成的実施化(constructive reduction to practice)としての特許出願、または実際の実施化(actual reduction to practice)としての実働モデルの作成が含まれます。

各段階には異なる法的要求事項があり、これらを混同することは重大な法的誤りとなります。PTABは、概念段階で実施化段階の要件(確実な機能の知識)を要求したため、法的基準を混同したとCAFCに判断されました。

通常技術レベルの重要性

CAFCは、概念の成立判断において通常技術レベル(ordinary skill in the art)の考慮が不可欠であることを強調しました。判断すべきは、発明者が概念を形成した時点で、その分野の通常の技術者が「広範囲な研究や実験なしに」発明を実施化できたかどうかです。

裁判所は、PTABが他の研究者による成功事例を適切に考慮しなかったことを批判しました。Brand v. Thomas, 96 F.2d 301, 303 (CCPA 1938)Amgen, Inc. v. Chugai Pharmaceutical Co., 927 F.2d 1200, 1207 (Fed. Cir. 1991)に基づき、第三者の実験結果(成功と失敗の両方)は、通常技術レベルでの実施可能性を判断する重要な証拠となります。

本件では、Regentsの概念に基づいて他の研究グループが実際に真核細胞でのCRISPR-Cas9システムを成功させていたという事実がありました。これは、Regentsの概念が通常技術レベルで実施可能であったことを示す強力な証拠でした。

CAFCはまた、適切な分析では 「一般的な希望以上のもの、しかし確実な成功の知識未満のもの」 が求められると明確化しました。これは、概念成立の要件として、漠然とした期待では不十分だが、確実な成功の保証までは必要ないという、実務的で合理的な基準を示しています。

実務への影響と留意点

特許出願戦略への示唆

本判決は、特許出願戦略、特に発明記録の文書化において重要な指針を提供します。研究開発過程での不確実性表明が概念の有効性を損なうものではないという明確化により、研究者や企業は実験記録をより正確かつ詳細に残すことができるようになります。

従来、多くの研究者や知財担当者は、実験の不確実性や疑問を記録することが後の特許紛争で不利に働く可能性を懸念していました。しかし、本判決により、科学的な誠実性に基づく記録が概念の有効性を損なわないことが明確になりました。

重要なのは、概念証明と実施化証明の文書化を明確に区別することです。概念段階では、以下の要素を明確に記録することが重要です:

  • 発明の具体的な構成要素と機能
  • 実施に必要な材料と方法
  • 予想される結果と理論的根拠
  • 通常技術レベルで実施可能であることを示す根拠

一方で、実際の機能確認や最適化実験の結果は、実施化の証拠として別途記録すべきです。両者を混同することなく、それぞれの段階に適した記録を残すことが、強固な特許ポートフォリオの構築につながります。

インターフェアレンス手続きでの対応

本事件はアメリカ発明法(America Invents Act、AIA)以前の先発明主義(first-to-invent system)の下で争われた事件です。判決文でも明確に「pre-America Invents Act 28 U.S.C. § 1295(a)(4)(A)」の管轄権の下で審理されたことが示されており、現在は廃止されたインターフェアレンス手続きを通じて「真の発明者」を決定する従来のアメリカ特許法の枠組みが適用されています。

AIA以前の出願に関するインターフェアレンス手続きにおいて、本判決は概念日の証明における新しい基準を提供します。今後の同様の事件では、PTABは本判決の基準に従って概念の成立を判断することになります。

先行発明主張における立証戦略も見直しが必要です。従来重視されていた「発明者の確信」よりも、「通常技術レベルでの実施可能性」に焦点を当てた主張が効果的となるでしょう。具体的には、以下の証拠が重要となります:

  • 同時期の技術文献における類似技術の実施例
  • 他の研究者による類似実験の成功例
  • 発明者が計画した実験手順の技術的妥当性
  • 必要な材料や装置の入手可能性

第三者の実験成功例の証拠価値も高まります。本判決により、発明者以外の研究者が同様の概念に基づいて実施化に成功した場合、それは元の概念の有効性を支持する強力な証拠となることが明確になりました。

国際的な先願主義への移行考慮

AIA以前の出願における本判決の影響は長期にわたって続くことが予想されます。先発明主義(first-to-invent system)下での概念証明の重要性は、関連する継続出願や分割出願において引き続き重要な要素となります。

各国特許制度における概念理論の比較も重要です。アメリカの概念理論は他国の特許制度には直接適用されませんが、国際的な特許ポートフォリオの管理において、発明の時系列的な記録は普遍的に重要です。特に、以下の点で国際展開における戦略的価値があります:

  • 優先権主張の裏付け証拠
  • 国際的なライセンス交渉での技術開発履歴の証明
  • 競合他社との技術開発競争における先行性の主張

今後の展望と予想される影響

CRISPR特許紛争の継続

本判決により、本件はPTABでの再審理に差し戻されました。新しい基準の適用により、Regentsが優先権を獲得する可能性が大幅に高まったと考えられます。CAFCが指摘したPTABの法的誤りは包括的であり、実質的にRegentsに有利な判断を示唆しています。

PTABでの再審理では、ディスカバリーフェーズにおいて詳細な技術的証拠が検討されることになります。この過程で、以下の点が重要な争点となるでしょう:

  • 2012年3月時点でのCRISPR技術の技術水準
  • 原核細胞から真核細胞への技術移転に関する当時の知見
  • 通常技術レベルでの実施可能性を裏付ける証拠

他の関連当事者への影響も注目されます。Sigma-Aldrich社やToolGen社など、CRISPR初期特許に利害関係を持つ他の当事者の訴訟は、本件の最終決定まで中断されています。本判決により、これらの関連訴訟の行方にも大きな影響が生じる可能性があります。

最終的な優先権決定までには、さらに1〜2年の期間が必要と予想されます。しかし、本判決により法的枠組みが明確化されたことで、投資家やライセンシーにとってはある程度の予測可能性が向上したと言えるでしょう。

バイオテクノロジー特許実務への波及効果

本判決は、バイオテクノロジー分野全体の特許実務に広範囲な影響を与えることが予想されます。不確実性の高い技術分野での概念証明戦略が根本的に見直されることになるでしょう。

従来、バイオテクノロジー分野では、新しい生物学的システムや治療法の開発において、多くの未知要素や不確実性が存在します。研究者たちは、実験の成功を確信できない段階での発明記録に慎重になる傾向がありました。しかし、本判決により、科学的な誠実性に基づく詳細な記録が奨励されることになります。

研究開発記録の文書化ベストプラクティスも進化するでしょう。具体的には、以下の要素を含む記録システムの確立が推奨されます:

  • 発明概念の形成過程の詳細な記録
  • 理論的根拠と技術的妥当性の説明
  • 必要な材料・方法・装置の特定
  • 予想される結果と成功の指標
  • 通常技術レベルでの実施可能性を支持する証拠

ライセンス交渉と投資決定への影響も重要です。特許の有効性に関する予測可能性が向上することで、技術移転やベンチャー投資における意思決定がより合理的に行われることが期待されます。

法的先例としての意義

本判決は、発明概念に関する法理において重要な先例となります。他の技術分野での概念基準への影響は、特に以下の分野で顕著となるでしょう:

  • 人工知能・機械学習技術
  • 量子コンピューティング
  • ナノテクノロジー
  • 再生医療・細胞治療

これらの分野は、いずれも高度な不確実性と技術的挑戦を伴うため、本判決の原則が直接適用される可能性があります。

将来のCAFC判決への指針提供という観点では、本判決は概念と実施化の区別に関する明確な法的フレームワークを確立しました。今後の特許紛争において、裁判所はこの基準を一貫して適用することが期待されます。

特許実務教育への反映必要性も高まっています。法科大学院や特許実務の継続教育プログラムにおいて、本判決の内容と意義を適切に教育することが、次世代の特許実務家の育成において重要となるでしょう。

まとめ

The Regents of the University of California v. Broad Institute, Inc. 事件におけるCAFCの判決は、発明の概念において「確実な成功の知識」は不要であることを明確に示し、特許実務における重要な指針を提供しました。この判決は、PTABが概念と実施化の法的基準を混同した根本的な誤りを正し、バイオテクノロジー分野の特許実務に新たな明確性をもたらしています。

概念と実施化の明確な区別や通常技術レベルの重要性など、本判決が提示した法的概念は、今後の特許紛争において重要な判断基準となるでしょう。特に、研究開発過程での不確実性や実験的困難が概念の有効性を損なわないという原則は、科学技術の進歩を促進する効果を持つと期待されます。

特許弁護士や知財実務家は、この新しい基準を理解し、クライアントの発明記録や特許戦略に適切に反映させる必要があります。概念証明と実施化証明の明確な区別第三者の成功例の積極的な活用通常技術レベルでの実施可能性の立証など、本判決が示した要素を戦略的に活用することで、より強固な特許ポートフォリオの構築が可能となります。

CRISPR特許紛争は継続しますが、本判決により発明概念の法的枠組みがより明確になったことは、バイオテクノロジー分野の特許実務に長期的な安定性をもたらすでしょう。技術革新と法制度の調和という観点から、この判決は現代の知的財産法制度における重要なマイルストーンとなることは間違いありません。

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