はじめに
2025年4月4日、米国第11巡回区控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Eleventh Circuit、以下「第11巡回区控訴裁判所」)は、契約上の責任制限条項が営業秘密不正流用の損害賠償請求に対してどの程度の影響を及ぼすかという重要な問題について判断を下しました。Alabama Aircraft Industries, Inc. v. Boeing Company事件において、裁判所は、当事者間で合意された責任制限条項が多くの損害賠償カテゴリーを制限するものの、「不当利得」に基づく救済請求は明示的に除外されていないため、その請求は可能であるとの結論に達しました。
この判決は、企業間の共同開発契約や秘密保持契約において責任制限条項が一般的に採用されている知財実務に重大な影響を与えるものです。特に競合企業間で営業秘密を共有する際のリスク管理と、契約条項の起草における具体的な留意点を再考する必要性を明確に示しています。
本稿では、この判決の背景、法的分析、そして知財実務家や特許弁護士が契約書作成において考慮すべき実務的要素を詳細に検討します。
事件の背景
当事者間の契約関係
Pemco Aircraft Engineering Services Inc.(以下「Pemco」)とBoeing Company(以下「Boeing」)は、通常は競合関係にある航空機整備会社でしたが、2005年に米国空軍の2008年契約の入札に共同で参加するために「チーミング契約」(Teaming Agreement)を締結しました。このチーミング契約は、以下の3つの契約文書から構成されていました:
- 基本契約(Master Agreement)
- 作業分担契約 (Work Share Agreement)
- 秘密保持契約(NDA)(Non-Disclosure Agreement)
これらの契約は一体として機能するようデザインされ、特に基本契約には責任制限条項(limitation of liability clause)が含まれていました。この条項では、契約違反が生じた場合に当事者が互いに請求できる損害賠償の種類を限定し、「付随的損害、懲罰的・見せしめ的損害、および結果的損害」(”incidental, punitive, exemplary, and consequential damages”)を明示的に除外していました。
しかし、当初は協力関係であった両社の関係は後に破綻し、Pemcoは、Boeingが秘密保持契約に違反してPemcoの営業秘密を不正流用したと主張するに至りました。
訴訟の経緯
訴訟の過程で、Pemcoは主に二つの請求を行いました:
- 秘密保持契約違反に基づく請求 (claim based on breach of the Non-Disclosure Agreement)
- ミズーリ州統一営業秘密法(Missouri Uniform Trade Secrets Act、以下「MUTSA」)に基づく営業秘密不正流用請求 (misappropriation of trade secrets claim under the Missouri Uniform Trade Secrets Act)
第一審では、陪審がPemcoの契約違反請求を認め、約213万ドルの直接的・実費的損害賠償を認定しました。一方、営業秘密不正流用請求については、アラバマ州の出訴期限法に基づいて却下されました。
Pemcoはこの判断を不服として控訴し、第11巡回区控訴裁判所は、適用されるべきはアラバマ州法ではなくミズーリ州法であり、MUTSAに基づく営業秘密不正流用請求はまだ出訴期限内であるとして、事件を地方裁判所に差し戻しました。
差し戻し後、地方裁判所は、基本契約の責任制限条項がMUTSAに基づく請求にも適用され、Pemcoがすでに契約違反に対する損害賠償を受け取っていることを理由に、営業秘密不正流用請求を却下しました。これに対してPemcoが再度控訴したのが今回の事件です。
契約上の責任制限と不法行為請求
責任制限条項の解釈
本件の核心的な法的問題は、PemcoとBoeingの間で締結された基本契約に含まれる責任制限条項が、ミズーリ州統一営業秘密法(MUTSA)に基づく不法行為請求(営業秘密不正流用)にも適用されるかどうかという点でした。この責任制限条項の文言を詳しく見ると、「契約違反」に関する損害賠償について言及していましたが、不法行為(営業秘密不正流用など)については明示的に触れていませんでした。この文言上の不明確さが本件の争点となりました。
第11巡回区控訴裁判所は、この責任制限条項の解釈において特に重要な手がかりを見出しました。それは、この条項が「懲罰的・見せしめ的損害賠償」(punitive and exemplary damages)を明示的に排除していたという点です。この点が決定的な意味を持ちました。なぜなら、ミズーリ州法の法理によれば、懲罰的損害賠償は契約違反の事案では原則として認められず、不法行為に対してのみ認められるものだからです。つまり、契約当事者が懲罰的損害賠償を除外する条項を設けたということは、単なる契約違反だけでなく、契約に関連する不法行為についても想定していたと考えるのが合理的だと裁判所は判断しました。
裁判所はさらに踏み込んで、当事者の意図を分析しました。両社が洗練された商業的当事者(sophisticated commercial parties)であることを考慮すると、懲罰的損害賠償を明示的に除外したということは、契約に関連する不法行為請求に対しても責任制限を適用する意図があったと解釈するのが妥当だと判断したのです。
また、本件における秘密保持契約違反と営業秘密不正流用請求の間には密接な関連性があります。両者は同じ事実関係から生じており、秘密保持契約で保護されていた情報が営業秘密として不正流用されたという主張だからです。この関連性を考慮して、裁判所は責任制限条項がMUTSAに基づく営業秘密不正流用請求にも適用されると結論づけました。
この判断は、契約条項の解釈において、単なる文言だけでなく、当事者の意図や契約の全体的な構造、そして適用される州法の特徴を総合的に考慮することの重要性を示しています。
ミズーリ州法における公序良俗との整合性
Pemcoは、将来の意図的不法行為に対する責任を免除する契約条項はミズーリ州の公序良俗に反すると主張しました。この論点において、裁判所は以下の2つの重要なミズーリ州最高裁判決を検討しました:
Alack v. Vic Tanny International of Missouri事件(1996年):個人消費者とジム運営会社の間の免責条項が問題となり、将来の意図的不法行為に対する責任免除は一般的に無効とされました。しかし、この判決では「同等に洗練された商業的事業体間で交渉された契約」については判断を留保していました。
Purcell Tire & Rubber Co. v. Executive Beechcraft, Inc.事件(2001年):2つの企業間で交渉された責任制限条項が契約違反と過失不法行為の両方に適用されると判断されました。重要なのは、裁判所が「洗練された当事者には契約の自由がある」と述べ、将来的な救済手段を契約によって制限できることを認めた点です。
第11巡回区控訴裁判所は、Purcell Tire判決に基づき、Pemcoとボーイングのような洗練された商業的当事者間では、契約により将来の救済手段を制限することがミズーリ州法上許容されると判断しました。特に、両社が明示的に懲罰的損害賠償を除外していたことから、意図的不法行為に対する損害賠償の一部制限も意図していたと解釈されました。
このように裁判所は責任制限条項の適用範囲について判断しましたが、次に問題となるのは、営業秘密不正流用に対する救済手段としての不当利得返還請求が、この責任制限条項によって排除されるのかという点です。この問題を検討するためには、営業秘密不正流用と不当利得の法的関係を理解する必要があります。
営業秘密不正流用と不当利得
ミズーリ州統一営業秘密法の規定
MUTSAに基づく営業秘密不正流用の請求は、以下の3つの要素が必要とされます:
- 営業秘密が存在すること
- 被告がその営業秘密を不正流用したこと
- 原告が損害賠償または差止命令による救済を受ける資格があること
第3の要素が今回の判断の焦点となりました。MUTSAは明示的に以下のように規定しています:
「損害賠償には、不正流用によって生じた実際の損失(actual loss)と、実際の損失の計算に含まれていない不正流用によって生じた不当利得(unjust enrichment)の両方を含めることができる」(ミズーリ州改正法第417.457.1条)
さらに、MUTSAは「本法の規定は、営業秘密の不正流用に基づくものであるかどうかを問わず、契約上の救済手段(contractual remedies)に影響を与えない」と規定しています(同法第417.463.2.1条)。
不当利得返還請求の法的位置づけ
裁判所の分析において決定的だったのは、責任制限条項で明示的に除外されている損害賠償のカテゴリー(付随的損害、懲罰的・見せしめ的損害、結果的損害)に、「不当利得」が含まれていなかった点です。
第11巡回区控訴裁判所によれば、「不当利得」は「結果的損害」の一種ではありません。その理由として:
結果的損害(consequential damages)は「違反行為によって自然かつ近接して引き起こされ、契約締結時に被告が合理的に予見できた損害」と定義されます。これは原告の損失に焦点を当てています。
これに対して不当利得(unjust enrichment)は「ある者が、その合理的価値を支払うことなく利益を保持することが不公正となる状況で利益を得た場合」に発生します。これは被告の利得に焦点を当てています。
つまり、結果的損害が被害者の損失を補償するのに対し、不当利得返還請求は加害者から不正な利益を剥奪することを目的とする根本的に異なる救済手段なのです。
また、Pemcoがすでに受け取った契約違反に対する直接的・実費的損害賠償は、Pemcoの「契約前の状態への回復」を目的とするものでした。一方、不当利得返還請求は、Boeingが不正流用によって得た利益の返還を求めるものであり、両者は重複しない別個の救済手段と判断されました。
不当利得返還請求の救済手段としての価値
他の損害賠償との比較
不当利得返還請求は、他の損害賠償と比較して以下のような独自の価値があります:
抑止効果:第10巡回区控訴裁判所のRusso v. Ballard Medical Products事件(2008年)で示されたように、不当利得の返還請求には「産業スパイが容認されたり、利益を生むことがないようにする」という正当な抑止機能があります。
補完的救済:実際の損失の計算に含まれていない場合に限り、不当利得の返還を請求できるため、被害者の実損害を補完する機能があります。
証明の容易さ:被害者自身の損失を立証することが困難な場合でも、加害者の利益は相対的に証明しやすいことがあります。
特に注目すべきは、営業秘密不正流用の文脈では、「窃盗」のような不正行為によって得られた利益を返還させることの重要性です。第10巡回区控訴裁判所はRusso事件において、「通常の契約違反請求と異なり、不正流用請求は窃盗の申立てを含み、泥棒は盗んだ物だけでなく、その窃盗から得た不正な利益も返還するよう求められる」と指摘しました。この考え方は、本件Pemco v. Boeing事件の分析においても参考となる重要な法理です。
実務上の適用
不当利得返還請求を実務で適用する際の主な考慮点は以下の通りです:
利得額の算定:被告が営業秘密の不正流用によって得た利益を特定し、数値化する必要があります。本件では、Pemcoは「再競争契約のBoeingへの発注」と「サンアントニオ基地全体でのBoeing のコスト削減」による不当利得を主張しました。
二重回復の回避:MUTSAは明示的に「実際の損失の計算に含まれていない」不当利得のみを請求できると規定しています。そのため、すでに受け取った損害賠償と重複しないことを証明する必要があります。
立証責任:原告は、被告が不正流用によって利益を得たこと、およびその利益が不当であることを立証しなければなりません。
第11巡回区控訴裁判所の判決後、Pemcoの営業秘密不正流用請求は、不当利得返還請求の側面に限って地方裁判所に差し戻されることになりました。これにより、Pemcoは、契約上の責任制限にもかかわらず、Boeingが営業秘密不正流用から得た不正な利益の返還を求める機会を得ることになります。
企業法務・知財実務への影響
契約条項のドラフトにおける注意点
本判決から得られる、契約条項を作成する際の重要な教訓は以下の通りです:
責任制限条項の範囲の明確化:除外する損害賠償の種類を列挙する場合、不当利得返還請求も含めるか否かを明示的に検討し、意図を明確に表現すべきです。「結果的損害」という一般的な表現だけでは不当利得を除外できない可能性があります。
適用対象の明確化:責任制限条項が契約違反だけでなく、契約に関連する不法行為にも適用されることを意図する場合は、その旨を明示的に記載すべきです。
矛盾する条項の回避:複数の契約書(本件では基本契約と秘密保持契約)が一体として機能する場合、それらの間で矛盾する条項がないか確認することが重要です。
州法間の違いへの対応:責任制限条項の解釈は州法によって異なる可能性があるため、準拠法の選択と、その法域における責任制限条項の解釈を考慮する必要があります。
共同開発・秘密保持契約の実務対応
競合他社との共同開発・秘密保持契約においては、以下の点に特に注意が必要です:
営業秘密開示前のリスク評価:潜在的なパートナーに営業秘密を開示する前に、契約上の保護措置だけでなく、不正流用が発生した場合に利用可能な救済手段も徹底的に評価すべきです。
責任制限と不当利得の明示的な処理:責任制限条項を交渉する際、不当利得返還請求に対する制限の有無を明確に定めることで、将来の紛争を回避または最小化できます。
営業秘密の特定と保護:共同開発において開示される営業秘密を特定し、それらの保護と、不正流用が発生した場合の救済措置について具体的に合意することが重要です。
デューデリジェンスの強化:潜在的なパートナーの評判、過去の訴訟履歴、知財保護への姿勢などを事前に調査することで、リスクを軽減できます。
本判決は、契約上の保護措置が営業秘密の完全な保護を保証するものではないことを示しています。企業は契約条項の起草に細心の注意を払いつつも、営業秘密不正流用が発生した場合に備えて、可能な限りの救済手段を確保する戦略を検討すべきです。
結論
Pemco v. Boeing事件は、契約上の責任制限条項が存在する場合でも、営業秘密不正流用に対する不当利得返還請求という救済手段が残されうることを示しました。知財実務家にとって、この判決は契約条項の起草や営業秘密保護戦略において重要な考慮事項となります。
特に注目すべき点は以下の通りです:
「結果的損害」と「不当利得」は法的に異なる概念であり、結果的損害を除外する契約条項は自動的に不当利得返還請求を除外するものではない。
洗練された商業的当事者間であっても、責任制限条項の文言が不明確な場合、予期せぬ救済手段が残される可能性がある。
営業秘密保護においては、保護的な契約条項だけでなく、違反が発生した場合に利用可能な救済手段も同様に重要である。
企業間の共同開発契約においては、責任制限条項が救済手段に与える影響を慎重に評価し、適切な保護手段を講じることが不可欠です。特に競合他社との関係では、営業秘密保護の観点から、契約によって保護される範囲と、契約条項が機能しなかった場合の法的救済手段の両方を十分に検討する必要があります。
最終的に、本判決は、契約条項の起草においては細部に注意を払い、裁判所がどのように解釈する可能性があるかを考慮することの重要性を改めて示したといえるでしょう。