Patent law illustration showing a detailed comparison of enablement criteria for prior art and patent validity, highlighting the CAFC's 2025 Agilent v. Synthego decision's nuanced legal interpretation

CAFCが明確化:先行技術の実施可能性は特許有効性とは別基準 – Agilent v. Synthego 判決の実務への影響

はじめに

特許法における実施可能性(enablement)の要件は、特許制度の根幹を支える重要な概念です。しかし、この概念が先行技術の評価と特許の有効性判断において異なる基準で適用されることを、多くの実務家が十分に理解しているでしょうか。2025年6月11日、連邦巡回控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Federal Circuit、以下「CAFC」)が下した Agilent Technologies, Inc. v. Synthego Corp. 判決は、この重要な区別を明確化し、特許実務に大きな影響を与える画期的な判断となりました。

本事件は、遺伝子編集技術CRISPR-Cas9(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats-CRISPR associated protein 9)システムに関する特許紛争であり、35 U.S.C. § 102(新規性)と§ 112(実施可能要件)における実施可能性基準の根本的相違を浮き彫りにしました。特に注目すべきは、最高裁の Amgen Inc. v. Sanofi 判決の適用範囲を限定し、先行技術の実施可能性判断における独自の基準を確立した点です。

CRISPR技術のような新興分野では、先行技術の実施可能性をどのように評価するかが特許の有効性を左右する重要な要素となります。本判決は、このような技術分野で活動する企業や特許実務家にとって、戦略的な指針を提供する重要な先例となることでしょう。

§ 102と§ 112における実施可能性基準の根本的相違

特許法における実施可能性の概念は、適用される条文によって全く異なる基準で判断されます。この違いを理解することは、効果的な特許戦略を構築する上で不可欠です。

§ 112の実施可能性要件:特許権者の開示義務

35 U.S.C. § 112(a)の実施可能性要件は、特許権者に対して発明の完全な開示を求める厳格な基準です。この要件の下では、特許明細書が当業者をして発明を「製造し使用する」(make and use)ことを可能にする程度の詳細な記載を含んでいなければなりません。

CAFCは本判決において、§ 112の実施可能性要件の本質について、特許明細書が当業者をして発明を使用することを可能にすることを要求するものであると説明しています。この要件は、特許権者が独占権を主張する範囲と開示義務のバランスを図る重要な機能を果たしています。

Amgen v. Sanofi 最高裁判決は、この文脈で重要な指針を示しました。最高裁は「当事者がより多くを請求すればするほど、より広範な独占を要求すればするほど、より多くを実施可能にしなければならない」と述べ、属概念クレーム(genus claim)における実施可能性の厳格な適用を確立しました。この判決は、機能的定義による広範なクレームに対して特に厳しい実施可能性基準を適用することを明確にしています。

§ 102の実施可能性要件:先行技術の新規性阻害力

一方、§ 102における実施可能性要件は、先行技術が新規性を阻害する力を有するかどうかを判断する基準として機能します。この要件は、§ 112の要件よりもはるかに低いハードルを設定しています。

CAFCは本判決で、この重要な相違について、先行技術の開示に関わる§ 102には使用の開示要件が含まれていないと説明しています。つまり、先行技術が新規性を阻害するためには、当業者が発明を使用できる程度の開示は必要ないということになります。

具体的には、先行技術の実施可能性判断において以下の特徴があります。まず、単一の実施形態の実施可能性で十分であり、クレーム範囲全体をカバーする必要はありません。また、実際の実施や成功の実証は不要で、理論的な実施可能性があれば足ります。さらに、過度の実験(undue experimentation)を要しない程度の開示があれば十分とされます。

この相違は、特許制度の根本的な政策考慮に基づいています。§ 112は特許権者の開示義務を通じて技術の進歩を促進することを目的とする一方、§ 102は既存の技術に対する不当な独占を防止することを主眼としています。

Agilent v. Synthego 事件の概要

本事件は、現代バイオテクノロジーの最前線で展開されるCRISPR技術をめぐる特許紛争として、多くの注目を集めました。事件の背景と争点を詳しく見ていきましょう。

事実関係とCRISPR技術の背景

CRISPR-Cas9システムは、遺伝子編集技術の革命的な進歩を代表する技術です。このシステムは、ガイドRNA(gRNA)とCasタンパク質が結合して単一の複合体を形成し、標的DNA配列に結合してDNAを切断する仕組みを持っています。効果的な遺伝子編集を実現するためには、gRNAが標的ポリヌクレオチド配列に結合する能力、安定性を保持して分解に抵抗する能力、そして機能性を維持する能力が必要です。

Agilentが保有する米国特許第10,337,001号(’001特許)および第10,900,034号(’034特許)は、化学修飾されたgRNAとCRISPR-Casシステムでの使用に関するものです。これらの特許は、2014年12月3日に出願された一連の仮出願を基礎としており、CRISPR技術がまだ比較的新しい分野であった時期の発明を保護しています。

‘001特許のクレーム1は、「5’末端から5ヌクレオチド以内」または「3’末端から5ヌクレオチド以内」に修飾ヌクレオチドを有する合成CRISPRガイドRNAを請求しており、「Casタンパク質と結合し、gRNA:Casタンパク質複合体を標的ポリヌクレオチドに誘導するgRNA機能性」を有することを特徴としています。

争点となった先行技術文献

本事件の核心となったのは、Pioneer Hi-Bred International社による国際公開第WO 2015/026885号(以下「Pioneer Hi-Bred」)です。この文献は、2014年8月20日に出願され、「ガイドポリヌクレオチド/Cas内切酵素システムを用いたゲノム修飾および使用方法」というタイトルで公開されました。

Pioneer Hi-Bredは、「ガイドポリヌクレオチド/Cas内切酵素システムを用いた細胞または生物のゲノム内の標的配列のゲノム修飾、遺伝子編集、および細胞または生物のゲノムへのポリヌクレオチドの挿入のための組成物および方法」を開示しています。重要なことに、この文献は「ガイドポリヌクレオチド」を「Cas内切酵素と複合体を形成し、Cas内切酵素がDNA標的部位を認識し、任意に切断することを可能にするポリヌクレオチド配列」と定義しています。

特に注目すべきは、Pioneer Hi-BredのExample 4です。この実施例は「切断活性と特異性を向上させるために、ガイドポリヌクレオチド/Cas内切酵素システムのガイド核酸成分の核酸塩基、ホスホジエステル結合、または分子トポグラフィーを修飾する」ことを開示しています。また、「生体内でのガイドポリヌクレオチド/Cas内切酵素システムの核酸成分の有効寿命または安定性を向上させるために、望ましくない分解を減少させるためにヌクレオチドおよび/またはホスホジエステル結合修飾を導入することができる」と記載されています。

しかし、重要な争点となったのは、Pioneer Hi-Bredに開示された修飾gRNAの一部が実際には機能しない(非機能的)配列を含んでいたことです。また、この文献の多くの実施例が予言的実施例(prophetic example)であり、実際に実施されていない理論的な記載であったことも争点となりました。

連邦巡回控訴裁判所の判断

CAFCの判断は、特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、以下「PTAB」)の決定を支持する形で下されましたが、その理由付けは特許実務に重要な示唆を与えています。

PTABの判断に対する実質的証拠基準での審査

CAFCは、Dickinson v. Zurko 最高裁判決に基づく実質的証拠基準(substantial evidence standard)を適用してPTABの事実認定を審査しました。この基準は、行政手続法(Administrative Procedures Act)第5条第706項に基づくもので、行政機関の専門分野における事実認定に対して司法府が示すべき敬譲を反映しています。

重要なのは、CAFCが In re Bayer Aktiengesellschaft 事件を引用して示した原則です。記録上の証拠に基づいて二つの異なる結論が正当化される可能性がある場合、PTABの決定は実質的証拠によって支持されるものとして維持されなければならないとしています。

この基準の適用により、CAFCはPTABが行った以下の事実認定を支持しました。まず、Pioneer Hi-Bredが機能的gRNAを開示していること、Pioneer Hi-Bredが実施可能であること、そして自明性に関する合理的成功期待があることです。

先行技術の実施可能性判断

CAFCは、Pioneer Hi-Bredの実施可能性について詳細な分析を行いました。裁判所は、In re Wands 事件で確立されたファクター分析をPTABが適切に適用したと判断しています。

重要な判断として、CAFCは予言的実施例の取り扱いについて明確な指針を示しました。裁判所は、Pioneer Hi-Bredで開示された実施例の一部が実用例でない可能性があるとしても、これはPioneer Hi-Bredが実施可能であるという推定を損なうものではないと判示しています。

さらに、CAFCは2014年時点でのCRISPR技術の成熟度について、PTABの認定を支持しました。PTABは、2014年12月の時点で技術分野はある程度予測不可能であったものの、当業者がCRISPR/Casシステムの要素の使用方法や機能について理解しており、gRNAの役割、RNA分解を減少させながら機能性を保持するための化学修飾の種類、およびgRNA作製のための標準的技術について知識を有していたと認定していました。

この判断は、新興技術分野における先行技術の実施可能性評価において重要な先例となります。技術分野が「ある程度予測不可能」であっても、当業者が基本的な理解を有し、標準的な技術が利用可能である場合には、実施可能性が認められる可能性が高いことを示しています。

Amgen v. Sanofi 最高裁判決との区別

本判決の最も重要な貢献の一つは、Amgen v. Sanofi 最高裁判決の適用範囲を明確に限定したことです。この区別は、特許実務における戦略的判断に大きな影響を与えます。

Amgen 判決の射程の限定

CAFCは、Agilentが Amgen 判決を援用した主張を明確に退けました。裁判所は、Amgen 事件では主張されたクレームが§ 112の下で十分に実施可能であるかが争点であったのに対し、本件ではPioneer Hi-Bred先行技術文献が新規性阻害を支持するために実施可能であるかが問題であり、これらは別個の問い合わせであると判示しています。

この区別は、法的枠組みの根本的な相違に基づいています。Amgen 判決は、特許権者が機能によって定義された抗体の属概念全体に対して独占権を主張することの問題性を指摘しました。最高裁は「当事者がより多くを請求すればするほど、より広範な独占を要求すればするほど、より多くを実施可能にしなければならない」という原則を確立し、広範なクレームに対する厳格な実施可能性要件を課しました。

しかし、先行技術の評価においては、このような政策考慮は適用されません。先行技術は独占権を主張するものではなく、既存の技術水準を示すものだからです。CAFCは、新規性阻害の開示については§ 102にはこのような要件は含まれていないと明確に判示しています。

先行技術評価における異なる政策考慮

先行技術の実施可能性判断において適用される政策考慮は、特許の有効性判断とは根本的に異なります。この相違を理解することは、効果的な特許戦略を構築する上で極めて重要です。

まず、新規性阻害における単一実施形態の十分性があります。先行技術がクレームされた発明を新規性阻害するためには、クレームの単一の実施形態を実施可能にすれば十分です。これは、クレーム範囲全体の実施可能性を要求する § 112の要件とは大きく異なります。

次に、特許権者の開示負担と先行技術の評価基準の相違があります。特許権者は独占権の対価として完全な開示義務を負いますが、先行技術の作成者にはそのような義務はありません。したがって、先行技術に対してより寛大な実施可能性基準が適用されることは合理的です。

さらに、イノベーション促進と特許権濫用防止のバランスも重要な考慮要素です。厳格すぎる先行技術の実施可能性要件は、本来無効であるべき特許の存続を許し、イノベーションを阻害する可能性があります。一方、寛大すぎる基準は、不十分な開示に基づく特許の濫発を招く恐れがあります。

CAFCは、PTABが適切にこれらのバランスを考慮したと判断しました。特に、Pioneer Hi-Bredで開示され争点となったクレームで記載された化学修飾の種類が、他のシステムでRNA分解に対してRNAを安定化させるために何十年も知られ使用されてきたという事実を重視しています。

実務への影響と戦略的考慮事項

本判決は、特許実務の様々な側面に重要な影響を与えます。実務家は、これらの影響を理解し、戦略的な判断に活用する必要があります。

特許出願戦略への示唆

本判決は、特許出願戦略において重要な示唆を提供しています。まず、広範なクレームドラフティングにおける Amgen の継続的影響に注意が必要です。Amgen 判決の影響は § 112の文脈では依然として強力であり、機能的定義による広範なクレームには厳格な実施可能性要件が適用されます。

特に、CRISPR技術のような新興分野では、属概念クレームの作成において慎重な検討が必要です。機能的特徴によって定義されたクレームは、その機能を発揮する全ての実施形態を実施可能にする必要があります。本事件のように「gRNA機能性」という機能的限定を含むクレームでは、その機能を発揮する様々な化学修飾について十分な開示が求められる可能性があります。

また、実施可能要件を満たす明細書作成の重要性も再確認されました。予言的実施例の記載における注意点として、理論的な記載であっても、当業者が過度の実験なしに発明を実施できる程度の詳細さが必要です。Pioneer Hi-Bredの例が示すように、一部の実施例が機能しない場合でも、全体として実施可能性が認められる可能性はありますが、これに依存するのは危険です。

特許無効化手続きにおける戦略

本判決は、IPR(Inter Partes Review)をはじめとする特許無効化手続きにおいて重要な戦略的示唆を提供しています。

まず、IPRでの先行技術の実施可能性立証のハードルが比較的低いことが確認されました。先行技術が単一の実施形態を実施可能にすれば十分であり、実際の成功の実証は不要です。これは、特許権者にとっては厳しい現実である一方、特許無効化を試みる当事者にとっては有利な環境を意味します。

非機能的実施例の存在を理由とする無効化主張の限界も明確になりました。Pioneer Hi-Bredの例が示すように、先行技術に一部の非機能的実施例が含まれていても、全体として実施可能性が認められる可能性があります。したがって、先行技術の一部の欠陥を指摘するだけでは不十分であり、全体的な実施可能性の欠如を立証する必要があります。

また、PTABの事実認定に対する上訴の困難性も考慮すべき要素です。実質的証拠基準の下では、PTABの事実認定が合理的である限り、CAFCはこれを覆すことはありません。したがって、PTAB段階での十分な証拠提出と説得的な主張が極めて重要です。

クライアントカウンセリングにおける考慮事項

本判決は、クライアントカウンセリングにおいても重要な考慮事項を提供しています。

CRISPR等の新興技術分野での特許リスク評価において、先行技術の実施可能性基準が比較的低いことを考慮する必要があります。技術分野が「ある程度予測不可能」であっても、基本的な技術が確立されている場合には、先行技術による新規性阻害のリスクが高いことをクライアントに説明すべきです。

先行技術調査における実施可能性判断の重要性も増しています。従来は実用例のない理論的な開示を軽視する傾向もありましたが、本判決は予言的実施例であっても実施可能性が認められる可能性を示しています。したがって、より幅広い先行技術の検討が必要です。

特許侵害リスクと無効化可能性の総合的評価も重要な要素です。強力に見える特許であっても、先行技術による無効化のリスクを適切に評価し、総合的な判断を行う必要があります。特に、機能的特徴を含むクレームについては、Amgen 判決の影響による無効化リスクと、本判決が示す先行技術による新規性阻害リスクの両方を考慮すべきです。

まとめ

Agilent Technologies, Inc. v. Synthego Corp. 判決は、特許法における実施可能性概念の理解に重要な明確化をもたらしました。35 U.S.C. § 102と§ 112における実施可能性基準の根本的相違を明確に示し、Amgen v. Sanofi 最高裁判決の適用範囲を適切に限定したことは、特許実務における戦略的判断に大きな影響を与えます。

先行技術の実施可能性判断においては、単一の実施形態の実施可能性で十分であり、実際の成功の実証は不要であることが確認されました。予言的実施例や一部の非機能的実施例の存在は、全体的な実施可能性の認定を妨げるものではありません。これらの原則は、CRISPR技術のような新興分野においても適用され、技術分野がある程度予測不可能であっても、基本的な理解と標準的技術の存在があれば実施可能性が認められる可能性が高いことが示されました。

実務への影響として、特許出願戦略では Amgen 判決の継続的な影響を考慮した慎重なクレームドラフティングが必要である一方、特許無効化手続きでは先行技術の実施可能性立証のハードルが比較的低いことを活用した戦略が有効となります。クライアントカウンセリングにおいては、これらの法的環境の変化を踏まえた総合的なリスク評価が求められます。

本判決は、急速に進化する技術と法制度の適応という現代特許法の重要課題に対する一つの回答を提供しています。特許実務家は、この判決が示す原則を深く理解し、日々の実務に活用することで、より効果的な特許戦略を構築することができるでしょう。技術革新と法的保護のバランスを図る本判決の意義は、今後の特許実務の発展において長く参照され続けることになるはずです。

2 Responses

  1. 詳細な解説をありがとうございます。実施可能性と予測可能性は、技術によって違うので新規性の判断も変わることがわかります。開示時点ではあらゆる実験や証明は無理であり、ある程度の予測が含まれている。また後にその予測が完全には正しくないと判明する場合も多くあり、医薬などの作用機序や効果の確証を待っていては、特許出願が遅れ、技術発展も遅滞するというジレンマがあります。米国裁判所と欧州統一裁判所では見解が異なっているように見受けられます。今後、特許の文脈の解釈が、人を含めた生物多様性により、変化していくかもしれません。

    1. ご指摘の通りです。医薬・バイオ分野では完全な解明を待てないジレンマがありますね。
      Agilent判決も、この現実を踏まえて先行技術に寛容な基準を示したのだと思います。欧州における見解の知見は私にはありませんが、出願は同じタイミングで行わなければいけないので、米欧の司法判断の相違も重要な観点ですね。
      「生物多様性による特許解釈の変化」という視点は非常に興味深いです。個人的にはAIをもちいた創薬の研究開発が今後より進むと考えているので、そのような背景から特許の文脈解釈もさらに変化していく可能性があると考えています。

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