はじめに
2025年1月10日、連邦巡回控訴裁判所(CAFC)はNovartis Pharmaceuticals Corp. v. Torrent Pharma Inc.事件において、医薬品特許実務に大きな影響を与える判決を下しました。CAFCは「発明時に未知であった後発技術は特許の明細書記載要件の充足性判断に影響しない」という原則を明確に再確認し、Novartis社の心不全治療薬Entresto®に関する特許を有効と判断しました。本判決は、特許出願時に知られていなかった複合体形成という現象が後に発見されたとしても、それが明細書記載要件の評価を左右しないという重要な先例を確立しました。
本記事では、この判決の背景と技術的詳細を解説するとともに、医薬品特許実務への具体的影響と出願戦略への示唆について詳しく検討します。特に、発明の本質的特徴と後発的知見の区別、そして明細書記載要件の時間的評価基準について、実務家にとって有益な考察を提供します。
技術的背景
Entresto®の医薬的重要性と市場での地位
本事件は、Novartis社の心不全治療薬Entresto®(サクビトリル/バルサルタン)に関する特許をめぐる紛争です。Entresto®は、心不全治療薬として2015年に米国食品医薬品局(Food and Drug Administration、以下「FDA」)に承認された医薬品です。当初は駆出率が低下した心不全の治療に使用されていましたが、2019年には小児心不全、2021年には駆出率が保たれた心不全の治療にも適応が拡大されました。2023年だけで、Entresto®の米国内売上高は30億ドル以上に達しています。
サクビトリルとバルサルタンの薬理学的メカニズム
Entresto®は、次の2つの有効成分の組み合わせからなる医薬品です:
バルサルタン:アンジオテンシン受容体ブロッカー(Angiotensin Receptor Blocker、以下「ARB」)であり、アンジオテンシンIIが受容体に結合するのを防ぎ、自然発生するホルモンである同物質の血管収縮作用を減少させます。
サクビトリル:中性エンドペプチダーゼ(Neutral Endopeptidase、以下「NEP」)阻害剤であり、バルサルタンと同様に血管収縮を減少させますが、そのメカニズムはアンジオテンシンを介さない別の経路によるものです。
「複合体」形成:非共有結合による二つの薬剤の結合
Entresto®の特徴的な点は、バルサルタンとサクビトリルが「複合体」を形成していることです。この複合体は、2つの薬剤が非共有結合による弱い結合を通じて単一の投与単位を形成しています。重要なのは、この複合体形成は’659特許の優先日(2002年1月)から4年後に発見されたものであり、発明当時は知られていなかった点です。
事件の概要
MSN Pharmaceuticalsを含む複数のジェネリック製薬会社が、Entresto®のジェネリック版製造販売のため簡略新薬承認申請(Abbreviated New Drug Application、以下「ANDA」)をFDAに提出しました。これに対しNovartis社は、この申請行為が米国特許第8,101,659号(’659特許)の侵害に当たるとして特許侵害訴訟を提起しました。
これらの訴訟はデラウェア州の連邦地方裁判所で多地区訴訟として統合され、審理が進められました。クレーム解釈段階では、「wherein said [valsartan and sacubitril] are administered in combination(前記[バルサルタンとサクビトリル]が組み合わせて投与される)」という文言の解釈が争点となりました。MSN社はこの文言が「2つの別個の成分として」投与することに限定されると主張しましたが、裁判所はNovartis社の主張を認め、より広い通常の意味を採用しました。この解釈によりMSN社は侵害を認めましたが、特許の有効性を争いました。
デラウェア地区連邦地方裁判所は3日間のベンチトライアル(裁判官による審理)の後、’659特許について以下の判断を下しました:
明細書記載要件違反により無効(invalid for lack of written description)- 地方裁判所は、バルサルタンとサクビトリルが複合体を形成するという現象が発明時に当業者に知られていなかったにもかかわらず、クレーム解釈によりこの複合体形態も特許範囲に含まれると判断した上で、明細書にはこの複合体についての具体的な記載や説明がないため、クレームの全範囲をカバーする十分な記載がなく、当業者が発明者が発明を所有していたと認識できる程度の記載を欠いているとして、明細書記載要件違反により特許を無効としました。
実施可能要件違反は証明されなかった(not proven invalid for lack of enablement)- 後発技術である複合体は実施可能要件の分析において考慮すべきではないと判断されました。
非自明性違反は証明されていなかった(not proven invalid for obviousness)- 先行技術から主張された組み合わせは事後的分析(hindsight)に基づくものであるとされました。
Novartis社はこの明細書記載要件に関する判断を不服として控訴し、一方でMSN社は実施可能要件と非自明性に関する判断について反論しました。これを受けて、連邦巡回控訴裁判所(CAFC)は審理を行うこととなりました。
連邦巡回控訴裁判所の判断
明細書記載要件に関する判断(破棄)
CAFCは、地方裁判所の明細書記載要件に関する判断を破棄しました。CAFCの重要な指摘は以下の通りです:
特許は「クレームされたもの」を記載すれば十分 – ‘659特許はバルサルタンとサクビトリルの「組み合わせ」を明確に記載しており、それで十分。
後発技術の記載は不要 – ‘659特許はバルサルタン-サクビトリル複合体をクレームしていないため、それらの複合体を記載する必要はない。
侵害判断と特許性判断の区別 – 地方裁判所はクレームがバルサルタン-サクビトリル複合体をカバーするよう解釈し、特許性と侵害の問題を混同したとCAFCは批判した。
発明時に未知の複合体形態を記載する必要はない – 複合体は’659特許の優先日から4年後に発見されたものであり、発明時には知られていなかったため、明細書記載要件の分析においてこれを考慮すべきではない。
CAFCは「明細書記載要件の問題は『クレームされたものは何か』ではなく、『クレームされたものは明細書に記載されているか』である」と強調しました。この発言は、特許の有効性判断において、クレームの解釈と明細書記載要件の判断を混同すべきではないという重要な原則を示しています。つまり、まずクレームが何をカバーするかを決定し、次にそのクレームされた発明が明細書に適切に記載されているかを評価するという二段階のプロセスが必要であることを明確にしたのです。
実施可能要件に関する判断(維持)
CAFCは、地方裁判所の実施可能要件に関する判断を維持しました:
特許は「クレームされたもの」を実施可能にすれば十分 – 明細書記載要件と同様に、実施可能性の判断もクレームされた発明に焦点を当てるべき。
後発技術が特許の有効性を遡及的に否定することはできない – Amgen v. Sanofi (2023)やIn re Hogan (1977)などの先例に基づき、後発技術によって特許を遡及的に無効にすることはできない。
複合体形態は発明の実施可能性判断に影響しない – 後発技術である複合体形態は、クレームされた発明の実施可能性判断において考慮すべきではない。
つまり、CAFCは、クレームされた発明(バルサルタンとサクビトリルの組み合わせ)は明細書に十分に実施可能に記載されており、発明後に発見された複合体形成という後発技術は実施可能要件の判断に影響を与えないとする地方裁判所の判断を正当と認めました。
非自明性に関する判断(維持)
CAFCは、地方裁判所の非自明性に関する判断も維持しました:
先行技術に組み合わせの動機付けがない – バルサルタンとサクビトリルを組み合わせる動機付けを示唆する先行技術が存在しないと判断。
サクビトリルは発明時点で人間や動物モデルで未試験 – 2002年時点では、サクビトリルは人間または動物の高血圧や心不全モデルでテストされておらず、その臨床的見通しは不確実だった。
成功の合理的期待がない – 先行技術は、クレームされた組み合わせが成功する合理的な期待を提供していなかった。
つまり、CAFCは、バルサルタンとサクビトリルを組み合わせる動機付けの欠如、発明時点でのサクビトリルの臨床的不確実性、および成功の合理的期待の欠如を理由に、地方裁判所の非自明性に関する判断を支持しました。
実務への影響
特許出願戦略
本判決は、特許出願戦略において以下の教訓を提供しています:
クレーム範囲と明細書記載の関係 – 明細書記載要件を満たすためには、クレームされた発明を記載すれば十分であり、クレーム範囲に含まれる可能性のある後発技術をすべて記載する必要はありません。そもそもその時点で後発技術に関する記載をするのは事実上不可です。
広範なクレームと将来技術の保護可能性 – しかし、適切に記載された広範なクレームは、発明時に知られていなかった将来の技術を保護する可能性があります。
「組み合わせ」クレームの効果的な記載方法 – 組み合わせ発明をクレームする場合、その組み合わせの本質的な要素と期待される効果を明確に記載することが重要です。
特許紛争戦略
特許紛争における戦略的考慮事項も示されています:
明細書記載要件攻撃の限界 – 発明時に知られていなかった技術に基づく明細書記載要件攻撃は成功する可能性が低いことが示されました。
クレーム解釈と侵害判断の分離 – 侵害分析において、クレームが後発技術をカバーするかという問題と、特許性の判断は明確に分けて考える必要があります。
後発技術に基づく特許無効化の困難性 – 本判決は、後発技術を根拠に特許を無効化することの難しさを強調しています。
関連する法理の発展
Amgen v. Sanofi (2023)との関係
本判決は、実施可能要件に関して米国最高裁のAmgen v. Sanofi判決(2023年)を引用しています。Amgen判決では、実施可能要件を満たすためには「当業者が過度の実験なしに発明を作製し使用できるかどうか」が問われ、これは特許の出願日時点で評価されるべきであるとされました。
In re Hogan (1977)の現代的適用
CAFCは1977年のIn re Hogan判決を引用し、後発技術を遡及的に使用して特許を無効にすることはできないという原則を再確認しました。この古い判例が現代の医薬特許紛争においても依然として重要であることが示されています。
クレーム解釈と明細書記載要件の交差点
本判決は、クレーム解釈が明細書記載要件の分析にどのように影響するかという重要な問題に光を当てています。CAFCはこれらの分析を分離し、侵害の文脈でクレームが解釈される方法と、特許性の文脈で明細書記載要件が評価される方法とを区別すべきであると強調しています。
結論
Novartis v. Torrent Pharma事件におけるCAFCの判断は、特許法における時間軸の重要性を強調しています。特許の有効性は発明時点で評価されるべきであり、後発技術の出現によって事後的に判断されるべきではありません。
このアプローチは、イノベーションを促進する特許システムの役割と一致しています。発明者は、彼らが発明した時点で知られていた技術のみを記載すれば良く、将来的に開発される可能性のあるすべての実施形態を予測し記載する必要はありません。
医薬特許における明細書記載要件の合理的解釈により、研究開発への投資と革新的治療法の開発が促進されることが期待されます。特許実務家は、本判決を参考に、クレーム範囲と明細書記載のバランスを適切に検討し、特許戦略を構築することが求められるでしょう。