はじめに
米国第5巡回区控訴裁判所が2025年4月3日に下したDeWolff, Boberg & Associates, Inc. v. Pethick事件判決は、営業秘密訴訟における原告敗訴の教訓を明確に示しています。本判決の核心は、「営業秘密の具体的特定と存在証明の不足」および「不正使用の具体的証拠の欠如」という基本的要件の欠落が訴訟失敗に直結するという点です。原告DB&Aは、データベース情報を「過度に広範」に定義し、被告による使用の具体的証拠を提示できなかったことで敗訴しました。
第5巡回区がこの判決で示した見解は、営業秘密訴訟において原告が克服すべき基本的な障壁を改めて強調しています。特に注目すべきは、原告がまず「営業秘密の存在」を具体的に特定し、証明する必要性を明確に示した点です。営業秘密訴訟は、その性質上、何が秘密であるかを明確に定義するという難しさを抱えていますが、本判決は単に「機密情報を持っていた」と主張するだけでは不十分であり、具体的かつ特定された情報が実際に営業秘密に該当することを立証する必要があることを再確認しました。
本記事では、この判決が示す営業秘密訴訟の成功要件と、日本企業が米国での営業秘密保護戦略を構築する際の実務的示唆について解説します。知的財産権弁護士や企業の知財担当者にとって、本判決は営業秘密保護戦略の基本に立ち返る重要な機会を提供しており、特にグローバルに事業展開する日本企業がアメリカで営業秘密訴訟を検討する際には必ず考慮すべき判例といえるでしょう。
事件の背景
当事者と紛争の概要
DeWolff, Boberg & Associates, Inc.(以下「DB&A」)は、1987年に設立されたダラスに本社を置く国際的な経営コンサルティング会社です。DB&Aは電子機器、食品、製造業、防衛請負業者など様々な業界にコンサルティングサービスを提供していました。
Justin Pethickは2018年にDB&Aの営業担当副社長(regional vice president of sales)として採用されました。この役職において、Pethickは「Salesforceデータベース」と呼ばれる顧客情報や見込み客情報が含まれるデータベースへのアクセス権を持っていました。また、「Share Pointデータベース」にも国防総省関連の見込み客情報(「DODリスト」)などの情報が保存されていました。
The Randall Powers Company(以下「Powers社」)は、DB&Aの元従業員であるRandall Powersが2008年に設立した競合コンサルティング会社です。2020年、Powers社はPethickに雇用機会を提示し、彼はDB&Aに在籍しながらPowers社の求人に応募して内定を受けました。
Pethickの退職後、DB&Aが見込み客としていた企業の何社かがPowers社と契約を結びました。これを受けてDB&Aは、PethickがDB&Aの営業秘密を盗み、Powers社のために顧客を獲得するために使用したと主張しました。
訴訟の経緯
2020年6月10日、DB&Aはテキサス州裁判所においてPethickを相手取り、契約違反と受託者責任違反で訴訟を提起しました。その後、事件は連邦裁判所に移送され、DB&AはPowers社を被告に追加し、営業秘密の不正使用を含むいくつかの請求を追加しました。
訴訟過程で、DB&Aは損害賠償額を計算するために専門家証人としてStuart B. Miller博士を指名しました。被告らはDaubert申立て(科学的証拠の信頼性を争う申立て)によりMiller博士の証言を排除するよう求めるとともに、サマリージャッジメント(略式判決)を申し立てました。
地方裁判所はDaubert申立てを認め、Miller博士の証言を排除し、DB&Aが損害を証明する証拠を欠いているとして、サマリージャッジメントを認めました。DB&Aはこの判断を不服として、Miller博士の証言排除と営業秘密不正使用の請求棄却について控訴しました。
営業秘密の証明における法的要件
テキサス州法における営業秘密不正使用の要素
第5巡回区はテキサス州法に基づき、営業秘密不正使用の請求を成立させるためには、原告が以下の3つの要素を証明する必要があると判示しました:
- 営業秘密が存在したこと
- 営業秘密が信頼関係の違反を通じて取得されたか、または不適切な手段によって発見されたこと
- 被告が原告の許可なく営業秘密を使用したこと
これらの要素は、多くの州の営業秘密法で共通する基本的な枠組みを反映しています。しかし本判決では、特に第一の要素である「営業秘密の存在」の立証においてDB&Aが適切な証明ができなかった点と、第三の要素である「使用」の証明においても十分な証拠を提示できなかった点が問題となりました。
テキサス州法における「営業秘密」の定義は広範ですが、その情報が具体的に特定され、非公知性と経済的価値、そして合理的な秘密管理措置が講じられていることの証明が不可欠です。また「使用」については、単なる疑惑や時系列の一致だけでは不十分であり、具体的な証拠が必要とされます。
「営業秘密」の具体的特定の必要性
本件でDB&Aは、Salesforceデータベースと「DODリスト」を含むShare Pointデータベースから得られた情報が営業秘密に該当すると主張しました。具体的には、以下の情報を営業秘密として挙げていました:
- Arcosa社、Sechan社、Beyond Meat社の機密連絡先情報
- これら3社の「人口統計情報、過去の情報、過去の会議からのメモ、特定のニーズや問題に関するメモ」
- これら見込み客との「ビジネス機会に関連する機密情報を含む文書や電子的保存情報」
- DODリストおよびその他の文書
裁判所は、DB&Aの主張を「極めて広範すぎる」と批判し、DB&Aがデータベース内の公開情報と非公開情報を区別していない点を指摘しました。さらに重要なのは、DB&Aがデータベース内のどの特定情報が営業秘密を構成するのかを具体的に特定できていないという点でした。
裁判所は特に、DB&Aが大量の証拠(「Exhibit X」として提出された一部が墨塗りされた文書)を提示するだけで、その中のどの情報が営業秘密であるかを明確に示していないことを問題視しました。裁判所は「被告がサマリージャッジメントに反対するための証拠を探すために記録を探る義務はない」と述べ、営業秘密の具体的特定の重要性を強調しました。
判決の分析
営業秘密の存在証明の失敗
第5巡回区は、DB&Aが提示した「営業秘密」の主張における複数の問題点を指摘しました。最も基本的な問題は、DB&Aがデータベース内のどの特定情報が営業秘密を構成するのかを明確に示せなかった点です。
特に裁判所は、DB&Aが提出した証拠「Exhibit X」の多くが墨塗りされており、墨塗りされていない部分のどの情報が営業秘密なのかもDB&Aが特定していない点を指摘しました。DB&Aは「機密連絡先情報」や「過去の会議からのメモ」などを一般的に描写するのみで、どの情報が具体的に営業秘密なのかを特定しませんでした。
また「DODリスト」についても、その文書の表面上、それが機密または専有情報を含むことが明らかではなく、DB&Aはその文書に記載された個人がDB&A関連の人物であることを認めていました。これでは、その文書が営業秘密を構成するという主張を支持する十分な証拠にならないと裁判所は判断しました。
公開情報と非公開情報の区別ができていないという問題も指摘されました。営業秘密として保護されるためには、その情報が一般に知られていないことや、合理的な努力によって容易に確認できないことが必要です。しかしDB&Aは、データベース内のどの情報が非公開で、どの情報が公開されているかを明確に区別していませんでした。
使用証拠の不足
第5巡回区は、仮にSalesforceデータベースとDODリストが適切な営業秘密を含んでいたとしても、Pethickまたは Powers社がそれらの営業秘密を使用または開示したという証拠がないため、サマリージャッジメントは適切であると判断しました。
「使用」の要素は、営業秘密不正使用の請求において不可欠です。第5巡回区は、商業的使用、つまり営業秘密から利益を得ようとする行為が「使用」に該当すると指摘しました。
DB&Aが提示した唯一の使用の証拠は、Pethickが退職前にDODリストのコピーを要求したというメールでした。しかし、Pethickが自分のコンピュータを法医学専門家に調査させた際、DODリストはそのコンピュータ上に存在していませんでした。つまり、PethickがPowers社に勤務中にDODリストを所持していたという証拠はなかったのです。
また、DB&Aは3社の見込み客がPethickの退職後にPowers社と契約を結んだという「疑わしい時系列」を指摘しましたが、これだけでは営業秘密の使用を証明するには不十分です。時系列の一致だけでなく、実際に営業秘密が使用されたという具体的な証拠が必要です。
実務上の示唆
訴訟前の営業秘密特定の重要性
本判決は、営業秘密訴訟を検討している企業に対して、訴訟前に営業秘密を具体的かつ明確に特定することの重要性を強調しています。以下の点が特に重要です:
具体的かつ明確な営業秘密の特定方法:営業秘密として主張する情報は、「機密情報」や「専有情報」などの漠然とした表現ではなく、具体的に何が秘密なのかを明確に特定する必要があります。例えば「顧客Aの価格設定アルゴリズム」や「製品Bの特定の製造工程」などの具体的な記述が求められます。
データベース情報を営業秘密として主張する際の留意点:データベース全体を営業秘密として主張するのではなく、データベース内のどの特定情報が営業秘密を構成するのかを明確に特定する必要があります。また、公開情報と非公開情報を明確に区別することも重要です。
効果的な証拠保全戦略:訴訟を見据えて、営業秘密の存在と性質を立証するための証拠を適切に保全することが重要です。これには、秘密管理措置の記録や、情報へのアクセス制限、NDAの締結などが含まれます。
営業秘密使用の証明戦略
営業秘密の使用を効果的に証明するためには、以下の戦略が考えられます:
間接証拠と直接証拠の組み合わせ:営業秘密の使用を直接証明する証拠(元従業員のコンピュータ上の営業秘密情報など)と間接証拠(時系列の一致、業績の急激な向上など)を組み合わせることが効果的です。ただし、時系列の一致だけでは不十分であることに注意が必要です。
フォレンジック調査の適切な活用:元従業員のコンピュータやデバイスのフォレンジック調査は、営業秘密の使用を証明する重要な証拠を提供する可能性があります。本件では逆に、フォレンジック調査によってDODリストがPethickのコンピュータに存在しなかったことが明らかになり、DB&Aの主張を弱める結果となりました。
時系列証拠の強化方法:単なる時系列の一致ではなく、被告が営業秘密にアクセスした直後に特定の行動を取ったことや、以前は不可能だったことが突然可能になったことなど、より具体的な時系列証拠を収集することが重要です。
結論
DeWolff, Boberg & Associates, Inc. v. Pethick判決は、営業秘密訴訟を成功させるための基本要件を再確認し、特に「営業秘密の具体的特定」と「使用の具体的証明」の重要性を強調しています。
この判決から得られる最も重要な教訓は、営業秘密保護戦略は訴訟が始まる前から適切に実施される必要があるということです。具体的には:
- 会社内で何が営業秘密であるかを明確に特定し、文書化しておくこと
- それらの営業秘密を保護するための合理的な措置を講じること
- 営業秘密へのアクセスと使用を監視し、記録すること
- 従業員が退職する際には、適切な手続きを踏んで営業秘密情報の返却と削除を確保すること
日本企業がアメリカで事業を展開する際には、このような基本的な営業秘密保護策を講じることが不可欠です。また、営業秘密訴訟を検討する際には、単なる疑惑や推測ではなく、具体的な証拠に基づいて判断することが重要です。
本判決は、営業秘密訴訟における「具体性」と「証拠」の重要性を改めて強調するものであり、企業の知的財産戦略を策定する上で重要な指針となるでしょう。