An image showing a complex flowchart or strategic diagram representing the changing landscape of patent challenges under the new USPTO "Settled Expectations" criteria, with timelines, legal symbols, and strategic decision points

時間が武器となる時代:PTAB「Settled Expectations」基準が変えるIPR戦略の未来

はじめに

2025年6月、アメリカ特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)代理長官Coke Morgan Stewartによる一連の裁量的否認決定(discretionary denial decisions)により、特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、PTAB)実務に変化が起きています。新たに導入された「Settled Expectations(確立された期待)」基準は、従来の特許挑戦戦略を見直す必要のある大きな変化をもたらしています。

特に注目すべきは、8年間存続した特許への挑戦が否認されたAXA Power事件です。この決定は、長期存続特許に対する当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)申立の困難さを浮き彫りにし、特許実務界に大きな衝撃を与えました。Stewart代理長官は「特許が存続している期間が長いほど、一般的に確立された期待はより強固になる」と明言し、特許の存続期間そのものが裁量的否認の重要な判断要素となることを示したのです。

本記事では、この基準における変化が特許実務に与える具体的影響と、実務者が今すぐ取るべき対応策について詳細に分析します。2025年3月26日に導入された暫定ワークロード管理プロセスInterim Workload Management Process)の核心部分である「Settled Expectations」基準の深層を探り、申立人・特許権者双方の戦略的転換点を明らかにしていきます。

「Settled Expectations」基準の意義

この新基準の導入は、単なる手続き上の変更を超えて、PTAB実務の哲学的転換を意味しています。Stewart代理長官による判断は、特許制度における時間的要素の重要性を前面に押し出し、長期存続特許の価値を法的に再認識させる画期的なものとなりました。

新基準の概念

「Settled Expectations」基準の最も重要な特徴は、特許の存続期間と「確立された期待」の直接的相関関係を認めた点にあります。Stewart代理長官はAXA Power事件において、「期待がいつ確立されるかについて明確な境界線はないが、一般的に、特許が存続している期間が長いほど、確立された期待はより強固になるべきである」と述べています。

この判断は、特許権者や業界関係者が長期間にわたって特許の有効性を前提として事業活動や投資判断を行ってきた現実を法的に保護する姿勢を示しています。従来のPTAB実務では、特許の存続期間は裁量的否認の判断において副次的な要素に過ぎませんでしたが、今回の基準により、これが主要な判断要素の一つに格上げされたのです。

さらに注目すべきは、明確な時間的境界線の意図的不設定による柔軟な判断システムの採用です。Stewart代理長官は具体的な年数による機械的な線引きを避け、個別事案の状況を総合的に考慮する裁量的アプローチを採用しました。これにより、申立人による「説得力のある理由付け」の立証責任が大幅に強化され、単純な特許挑戦戦略では成功が困難になりました。

Stewart代理長官の判断基準の深層分析

AXA Power事件の分析により、Stewart代理長官の判断基準の深層構造が明らかになります。この事件では、8年間存続した特許を「settled expectations」の根拠として認定し、35 U.S.C. § 325(d)の適用要件を満たさない状況にも関わらず裁量的否認を認めるという画期的な判断を下しました。

この決定の革新性は、従来の裁量的否認が主に先行技術の重複や並行手続きの存在といった技術的・手続き的要素に基づいていたのに対し、「時間の経過」という新たな要素を主要な判断基準として確立した点にあります。Stewart代理長官は、他の裁量的要素との比較衡量において「settled expectations」を優位に位置づけ、特許の長期存続がそれ自体で保護に値する利益を創出するという新たな法理を構築しました。

さらに重要なのは、申立人による説得力のある理由付けの要求水準が大幅に引き上げられた点です。AXA Power事件において、申立人は「なぜIPRがUSPTOリソースの適切な使用なのかについて説得力のある理由付けを提供しなかった」と批判されました。これは、単に特許の無効性を主張するだけでは不十分であり、公的リソースを使用してまで既存の特許に挑戦する正当性を具体的に論証する必要があることを意味します。

知的財産法体系との整合性

Stewart代理長官は、「Settled Expectations」基準の正当性を他の知的財産法分野との整合性から論証しています。特に注目すべきは、特許侵害訴訟における6年時効との理論的整合性の指摘です。代理長官は「侵害訴訟の提起から6年以前に行われた侵害については回復できない」という規定を引用し、時間の経過が権利行使に制限を設ける先例として位置づけました。

この類推は、特許制度における時間的制約の必要性を示す重要な論拠となっています。商標法における5年不争性との対比も同様の効果を持ちます。商標は永続的な権利でありながら5年で不争性を獲得するのに対し、20年という有限期間の特許がいつまでも挑戦を受け続けることの不合理性を浮き彫りにしています。

さらに、有限期間権利である特許の特殊性を踏まえた期間制限の必要性も重要な論点です。特許権者は限られた20年間の独占期間において投資回収と事業展開を行う必要があり、長期間にわたる無効化の脅威は特許制度の本来的機能を阻害する可能性があります。「Settled Expectations」基準は、このような特許制度固有の時間的制約を法的に保護する仕組みとして機能することが期待されています。

実務への即座の影響と対応策

「Settled Expectations」基準の導入により、特許実務者は従来の戦略を根本的に見直す必要に迫られています。この変化は申立人・特許権者双方に異なる影響をもたらし、それぞれが新たな戦略的アプローチの構築を求められています。

申立人側の戦略的転換点

申立人側にとって最も重要な変化は、特許公告後の早期申立の戦略的重要性が飛躍的に向上した点です。従来は特許の存続期間を戦略的要素として重視する必要がありませんでしたが、「Settled Expectations」基準の下では、時間の経過そのものが申立成功の障害となります。

長期存続特許への挑戦においては、「compelling reasons(説得力のある理由)」の具体的構築が不可欠となりました。Stewart代理長官がAXA Power事件で示した基準によれば、単純な無効性の主張では不十分であり、公的リソースを使用してまで既存特許に挑戦する正当性を明確に論証する必要があります。この正当性は、技術進歩、市場変化、公衆衛生上の必要性、国家安全保障上の利益などの観点から構築されなければなりません。

経済的・公衆衛生・国家安全保障上の利益を前面に出した論理構成の必要性も高まっています。特に、医薬品特許や重要技術分野の特許については、公共の利益の観点から「settled expectations」を上回る正当化事由を提示することが求められます。申立人は、単なる商業的利益ではなく、社会全体の利益の観点から申立の必要性を論証する戦略的転換が必要です。

具体的な対応手法として、特許存続期間3-5年以内の申立タイミングの最適化が重要となります。この期間内であれば「settled expectations」の蓄積が相対的に少なく、申立成功の可能性が高まります。また、技術進歩や市場変化を根拠とした「説得力のある理由」の論証では、特許出願時点と現在の技術水準の差異を具体的に示し、当該特許の継続的保護が技術革新を阻害する可能性を明確に論証することが重要です。

特許権者側の新たな防御戦略

特許権者側にとって「Settled Expectations」基準は強力な防御手段となります。この基準の効果的な活用には、特許の商業的実施実績と市場への浸透度の立証が重要な要素となります。長期間にわたる商業的成功、ライセンス収入の実績、市場における技術標準としての地位などを具体的に示すことで、「settled expectations」の存在を強力に論証できます。

長期間の権利行使実績による「確立された期待」の強化論も重要な戦略です。特許権者は、過去の侵害訴訟、ライセンス交渉、警告書の送付などの権利行使実績を体系的に整理し、業界関係者が当該特許の有効性を前提として行動してきた事実を立証する必要があります。このような実績の蓄積は、「settled expectations」の客観的根拠となります。

実践的アプローチとして、特許存続期間と商業的成功の相関関係の具体的立証が効果的です。特許権者は、特許出願から現在までの売上推移、市場シェアの変化、技術採用の拡大などのデータを時系列で整理し、特許が長期間にわたって市場価値を創出してきた事実を明確に示す必要があります。

ライセンス契約や投資判断における特許の重要性の証明も重要な要素です。第三者との間で締結されたライセンス契約、特許を担保とした融資契約、特許ポートフォリオの評価に基づく企業買収などの事例は、当該特許に対する「settled expectations」の客観的証拠となります。

業界における特許の認知度と依存度の客観的データ収集では、技術標準への採用実績、学術論文での引用状況、競合他社の回避設計の実施状況などを体系的に調査し、当該特許が業界において不可欠な地位を占めている事実を立証することが重要です。

長期的な実務変化の予測

「Settled Expectations」基準の導入は、特許実務の根本的な変化を予告しています。この変化は単発的なものではなく、特許制度全体の構造的転換を示唆する長期的なトレンドの始まりと考えられます。

特許ポートフォリオ戦略の根本的見直し

早期権利行使の戦略的重要性が飛躍的に増大しています。従来の特許戦略では、特許取得後の権利行使タイミングは主に市場状況や競合他社の動向によって決定されていました。しかし、「Settled Expectations」基準の下では、時間の経過そのものが特許の防御力を強化するため、早期の積極的権利行使が特許価値の最大化に直結します。

長期存続特許の価値評価基準も根本的な変化を迫られています。従来の特許評価では、技術的優位性、市場規模、侵害発見の容易性などが主要な評価要素でしたが、今後は「存続期間」そのものが重要な価値要素として組み込まれる必要があります。特に、5年以上存続している特許は、その時間的要素だけで追加的な防御価値を持つと評価されるべきです。

特許出願戦略における存続期間を考慮した優先順位付けも重要な変化です。企業は限られたリソースの中で特許出願を行うため、将来的な「settled expectations」の蓄積可能性を考慮した戦略的判断が必要となります。特に、長期的な市場支配を目指す基幹技術については、早期の特許取得と継続的な権利行使による「settled expectations」の構築が重要な戦略となります。

業界全体への波及効果

特許ライセンス交渉における「Settled Expectations」の影響は多方面に及びます。長期存続特許のライセンス料率は、その防御力の向上を反映して上昇する可能性があります。また、ライセンス交渉において、特許の存続期間と「settled expectations」の蓄積度が重要な交渉材料となることが予想されます。

特許訴訟戦略と無効化手続きの統合的アプローチの必要性も高まっています。従来は独立して検討されていた連邦地方裁判所での特許訴訟とPTABでの無効化手続きが、「settled expectations」基準の下では相互に影響し合う関係となります。訴訟戦略の立案において、両手続きの時間的調整と戦略的連携がより重要になります。

技術標準化活動における特許の長期的価値の再評価も重要な変化です。標準必須特許(Standard Essential Patent、SEP)や業界標準に組み込まれた特許は、その標準化期間の長さに応じて「settled expectations」を蓄積し、無効化手続きに対する防御力を強化します。これにより、標準化活動への参加戦略と特許出願戦略の統合的検討がより重要になります。

まとめ

「Settled Expectations」基準の導入は、単なる手続き上の変更を超えて、特許制度の根幹に関わる哲学的転換を意味しています。この変化は、特許権者の長期的な期待利益を法的に保護し、特許制度の安定性と予測可能性を向上させる一方で、申立人に対してはより高度な正当化責任を課すものです。

特許実務者は、この新基準が創出する戦略的機会と脅威を正確に理解し、クライアントの利益を最大化する新たなアプローチを構築する必要があります。申立人側では早期申立の重要性と説得力のある理由付けの構築が、特許権者側では「settled expectations」の効果的な立証と活用が、それぞれの成功の鍵となります。

特に重要なのは、特許の存続期間を戦略的要素として組み込んだ包括的な権利行使・防御戦略の策定です。これまで副次的な要素に過ぎなかった時間的要素が、今や特許価値の中核的要素として位置づけられています。企業の知的財産戦略は、この新たな現実を反映して根本的な見直しが求められています。

今後の正式なルール制定を見据えつつ、現在の暫定プロセス下での最適な実務対応を確立することが、競争優位性確保の鍵となるでしょう。Stewart代理長官による革新的な判断は、AI技術の進歩や国際競争の激化といった現代的課題に対応した特許制度の進化を示しており、この変化に適応できる実務者と企業が将来的な成功を収めることになります。

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