はじめに
連邦巡回控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Federal Circuit、以下「CAFC」)は2025年3月10日、特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、以下「PTAB」)が証拠の全体的な評価を怠ったとして、Merck Patent GmbHの特許の有効性を支持したPTABの決定を破棄・差戻す判決を下しました。本事件CQV Co. Ltd. v. Merck Patent GmbHは、PTABの証拠評価における説明責任と、特許付与後レビュー(Post-Grant Review、以下「PGR」)からの上訴における当事者適格(standing)に関する重要な指針を提示しています。
注釈:特許付与後レビュー(Post-Grant Review、PGR)とは
特許付与後レビュー(PGR)は、2011年の米国発明法(America Invents Act)によって導入された特許の有効性を争うための行政手続きです。この制度では、特許発行日から9ヶ月以内に第三者が特許の有効性に異議を申し立てることができます。PGRでは、新規性や非自明性の欠如、記載不備、特許対象外の主題など、幅広い無効理由を主張することが可能です。
PGRの審理はPTABによって行われ、通常は申立てから12ヶ月以内(最大で18ヶ月まで延長可能)に最終決定が下されます。証明基準は「証拠の優越(preponderance of evidence)」であり、訴訟における「合理的な疑いを超える(beyond reasonable doubt)」や「明確かつ説得力のある証拠(clear and convincing evidence)」よりも低い基準が適用されます。
重要な点として、PGRにおける先行技術の範囲は広く、学術論文や特許文献だけでなく、製品の販売、公開使用、一般への提供など、あらゆる形態の公知情報が含まれます。これにより、市場で流通していた製品も、適切な証拠があれば先行技術として主張できます。
PGRは、特許権者と第三者の双方にとって、裁判所での訴訟よりも迅速かつ費用対効果の高い紛争解決手段として機能することを意図しています。
事件の背景
係争中の特許と当事者
本件で問題となったのは、Merck Patent GmbH(以下「Merck」)が保有する米国特許第10,647,861号(以下「’861特許」)です。この特許は「α-アルミナフレーク」に関するもので、特定の特性を持つα-Al₂O₃フレークとその用途(塗料、産業用コーティング、自動車用コーティング、印刷インク、化粧品製剤、特に効果顔料の透明基材としての使用)について開示しています。
‘861特許の明細書によれば、これらの透明アルミナフレークは、従来技術と比較して「色彩の増加、高い光沢、低いヘイズ、優れた仕上がり」という改良された光学的特性を示し、同時に「高い化学的安定性」を維持しています。また、明細書は「α-Al₂O₃フレークに基づく真珠光沢顔料は文献でよく知られており、Merck KGaAからXIRALLIC®の商標で市販されている」と説明しています。
Merckに対し、韓国の顔料メーカーCQV Co., Ltd.(以下「CQV」)がPGRを申し立てました。CQVはMerckと競合関係にあり、Adamas®という真珠光沢顔料製品ラインを製造・販売しています。
PTABでの手続き
2021年2月11日、CQVはPTABに’861特許のクレーム1-22に対するPGRを申し立てました。CQVは、様々な先行技術の組み合わせによりこれらのクレームが自明であると主張しました。具体的には、クレーム1-17および21について、「Sample C」として特定されたXirallic®のサンプルロットと他の参考文献の組み合わせに基づく自明性を主張しました。
当事者間では、’861特許の基準日と、関連するXirallic®サンプルの先行技術としての地位について争いがありました。CQVは基準日を2013年4月30日と主張し、一方Merckは2012年4月30日と主張しました。PTABでの審理において、CQVは「Sample C」として特定されたXirallic®の特定ロットに焦点を当てた分析を行うことに同意しました。
2022年8月、PTABは最終決定において、CQVが「Sample Cに使用されたXirallicのロットが(いずれの主張された基準日においても)先行技術として適格であるという主張を適切に裏付けていない」と判断しました。その結果、PTABはXirallic®を参照せずに申し立てられた理由を検討し、CQVが優越する証拠(preponderance of the evidence)によって異議を申し立てられたクレームが特許性を欠くことを示していないと結論付けました。
連邦巡回裁判所での上訴
当事者適格(Standing)の問題
PTABの最終決定に対する上訴において、上訴人としてのCQVはArticle III(合衆国憲法第3条)に基づく当事者適格を有することを示す責任を負います。CAFCの判例法によれば、当事者適格を確立するためには「具体的かつ特定的な」侵害を示す必要があり、単なる「推測的または仮定的な」侵害では不十分です。一般的には、上訴人が「侵害訴訟を引き起こす可能性のある活動に従事している、従事している、または従事する可能性が高い」ことを示せば十分とされています。
当初、CQVは同社の研究室長の宣誓供述書に依拠して当事者適格を確立しようとしました。この宣誓供述書では、CQVが「Adamas®として知られる真珠光沢顔料製品ライン」を製造・販売しており、これがXirallic®と競合していること、そしてMerckが「米国でAdamas®を流通・販売しているCQVの少なくとも1人の顧客に連絡を取り、Adamas®が’861特許を侵害していると主張した」ことが述べられていました。
CAFCが当事者適格の問題について追加の説明を求めた後、CQVは補足宣誓供述書を提出し、より詳細な主張を行いました。この補足宣誓供述書によれば、この上訴の前にMerckは米国でAdamas®を購入したCQVの2人の顧客に連絡を取り、後に’861特許として発行された米国特許出願公開第2014/0322536号の文脈で侵害の可能性について議論したとのことです。Merckからの連絡を受けた顧客の1人はCQVからのAdamas®の購入を中止し、もう1人はCQVに正式な補償契約(indemnity agreement)を締結するよう要求しました。
CAFCは、「特許権者が顧客を直接侵害で告発した場合に、供給者がその顧客を侵害責任から補償する義務を負う」という状況は、供給者が「宣言的判決を求める訴訟を開始するのに十分」であると判示した2011年のArris Group, Inc. v. British Telecommunications PLCの判例を引用しました。さらに、宣言的判決法に基づく当事者適格の基準はArticle IIIの当事者適格の基準と同じであるため、CQVは本上訴を追行する当事者適格を有していると結論付けました。
Merckは、自社のコミュニケーションは単に「Merckの権利とその一般的な範囲を特定しただけ」であり、「特定の被疑製品を特定」せず、「受信者が米国で何かを行っていることを示唆」せず、「明示的または暗黙的な侵害の主張をしていない」ため、当事者適格を確立できないと主張しました。しかし、CAFCは、当事者適格の証明には特許権者からの特定の侵害の脅威を主張する必要はないとする2020年のAdidas AG v. Nike, Inc.の判例を引用しました。少なくとも1人の顧客による米国でのAdamas®製品の購入・使用、Merckのその顧客とのコミュニケーション、およびCQVとその顧客との補償契約を考慮すると、CQVは本上訴を追行する当事者適格を確立したとCAFCは判断しました。
実体審理:PTABの証拠評価
本案に移り、CAFCはPTABによるCQVがSample Cが先行技術として適格であることを示すことができなかったという認定に対するCQVの異議申立てを検討しました。CAFCは、関連する証拠が適切に評価されたかどうかを判断できないとして、PTABに差し戻すことを決定しました。
PGRにおいて、申立人は優越する証拠によって主張された参考文献が先行技術として適格であることを示す責任を負います。PTABは、Sample Cが主張されたいずれの基準日以前にも先行技術として適格であることをCQVが証明できなかったと判断する際に、以下の証拠を考慮して割り引きました:
- Sample Cに結び付けられていないXirallic®製品ラインの入手可能性に関する一般的な説明
- CQVがSample Cを2011年10月頃に購入したというChoi氏の証言
- MerckがSample Cを2007年に製造し、貯蔵寿命を無駄にしないために可能な限り早く在庫を販売するインセンティブがあるというCQVからの証拠
PTABは、これらの証拠を合わせて考慮しても、Sample Cが2012年4月30日以前に一般に入手可能であったことを示すには不十分であると判断しました。この判断は、Merckが反証を提出していない状況、つまりCQVの証拠に対して特許権者側から具体的な反論がなされていない状況にもかかわらず、下されていました。
このような背景から、CAFCは、PTABが依拠した証拠がその結論を支持するとしても、PTABは記録全体を考慮することを怠ったと判示しました。CAFCは、「我々の審査は行政手続法(Administrative Procedure Act、APA)の下で敬意を払うものであるが、それは『機関がその認定のための証拠的根拠を発展させる義務を軽減するものではない』」と述べました。APAは連邦行政機関の行為を規制する法律であり、行政機関の決定に対する司法審査の基準を定めています。この法律の下では、裁判所は行政機関の決定を「恣意的、気まぐれ、裁量の乱用、または法に従っていない」場合にのみ覆すことができます。しかし、CAFCが強調したように、この敬意ある審査基準は「委員会が『その行動に対する満足のいく説明を明確にし、発見された事実と選択された選択肢との間の合理的な関係を含む』義務を負っている」ことを意味します。
CAFCは、PTABがFritsch氏の証言(Xirallic®は一般的に「品質管理によって・・・リリースされた後に・・・顧客注文によって入手できる」こと)や、「Adamas製品の品質管理プロセスは平均して2〜3週間を要する」という証言を含む記録の一部を考慮しなかったと指摘しました。CAFCは、「すべての問題やすべての証拠を明示的に議論しないことだけでは、裁判所がそれを検討しなかったことを証明するものではない」としながらも、PTABの決定の誤りは単に些細な論点について言及しなかったという程度のものではないと判断しました。CAFCは、CQVが「Sample Cが品質管理に入れられてから数週間以内に一般に入手可能になるという非常に重要で反論されていない証拠」を提示したが、PTABがこれを「説明なしに破棄した」と認定しました。
Merckは、PTABが証拠を無視した理由として複数の説得力ある主張を行いました。例えば、PTABがSample Cを単なる実験バッチと見なした可能性や、Sample Cが通常とは異なる取扱いを受けたと判断した可能性などです。しかし、CAFCはこれらの主張を退けました。その理由は、PTABがそのような認定を明示的に行っておらず、また決定文書の中でPTABの推論を推測できるような根拠も示されていなかったからです。CAFCは「PTABが関連性のある反論されていない証拠を無視した理由を説明しなかったため、『PTABが適切な判断過程を踏んだかどうかを合理的に判断することができない』」と結論付けました。
差戻しに際し、CAFCはPTABに対し、証拠を全体として考慮し、Sample Cが主張された基準日以前に入手可能であった可能性が高いかどうかを説明するよう指示しました。その際、必要とされる確実性の程度を誇張しないよう注意すべきであるとCAFCは付け加えました。事実認定者が適用される基準によって要求される確実性の程度に達していないと判断する場合にのみ、立証責任を負う当事者の主張は認められません。言い換えれば、立証責任を負う当事者は、基準(この場合は証拠の優越)によって要求される確実性の程度まで事実認定者を納得させなければなりません。
判決の影響
PTABの手続きへの影響
本判決は、PTABが証拠評価において透明性を確保し、合理的な説明を提供することの重要性を強調しています。PTABは記録全体を検討し、なぜ特定の証拠を重視または無視したのかを明確に説明する必要があります。特に、反論されていない重要な証拠を無視する場合には、その理由を説明する責任があります。
さらに、本判決は証拠の優越(preponderance of evidence)という証明基準の適切な適用方法についても指針を提供しています。CAFCは、PTABが「必要とされる確実性の程度を誇張しないよう注意すべき」と警告しており、優越する証拠の基準は「証拠の均衡が一方に傾いている」ことを求めるものであり、絶対的な確実性を要求するものではないことを示唆しています。
特許実務家への示唆
本判決は特許実務家、特に無効化手続きに関わる者にとって重要な示唆を含んでいます。
第一に、先行技術の証明における証拠収集の重要性が強調されています。先行技術の地位を主張する際には、単一の証拠だけでなく、複数の補強証拠を収集し、それらが全体として優越する証拠の基準を満たすことを示すことが重要です。本件では、CQVは製品の購入日、製造日、品質管理プロセスの期間など、様々な角度から証拠を提示しました。
第二に、PTABでの先行技術の立証戦略において、提示する証拠間の関連性を明確にし、それらが全体としてどのように結論を支持するかを説明することが重要です。特に、品質管理プロセスなど、業界の一般的な慣行に関する証拠は、特定の製品の入手可能性を示す上で価値があります。
第三に、上訴における当事者適格の確立方法について重要な指針が提供されています。特に、特許権者が直接自社を侵害で訴えていない場合でも、顧客との間で補償契約を結んでいるなど、具体的な経済的影響を示すことで、当事者適格を確立できる可能性があります。
将来の訴訟への示唆
本判決は、将来のPTAB決定に対する上訴戦略にも影響を与える可能性があります。
第一に、当事者適格を確立するための補償契約の活用が重要な戦略となり得ます。CAFCは、顧客との補償契約が当事者適格を確立するのに十分であると認めており、これは将来の上訴人にとって有用な先例となります。特に、特許権者が直接侵害を主張していない場合でも、顧客とのやり取りや補償契約を通じて、具体的な経済的影響を示すことができます。
第二に、PTABへの証拠提示において、証拠の包括的提示の重要性が強調されています。複数の証拠を提示し、それらが全体としてどのように結論を支持するかを明確に説明することが、PTABおよび上訴審での成功の鍵となります。
第三に、PTABの決定に対する上訴では、PTABが記録全体を考慮したかどうか、および適切な説明を提供したかどうかが重要な争点となり得ます。特に、反論されていない重要な証拠がPTABによって無視された場合、その点を上訴の根拠として強調することが効果的な戦略となり得ます。
まとめ
CQV v. Merck事件は、PTABが証拠の評価において適切な説明を提供し、記録全体を検討する義務があることを再確認しました。CAFCは、PTABが重要かつ反論されていない証拠を説明なしに無視したことを問題視し、事件を差し戻しました。また、この判決は、補償契約が当事者適格を確立するのに十分であると認め、上訴人にとって重要な先例を提供しました。
特許実務家は、この判決から多くの教訓を得ることができます。先行技術の立証においては複数の証拠を提示し、PTABでの手続きにおいては証拠間の関連性を明確にすることが重要です。また、PTABの決定に対する上訴の際には、PTABが記録全体を考慮し、適切な説明を提供したかどうかを検討する必要があります。
最後に、証明基準の適切な適用も重要な論点です。「証拠の優越」の基準は絶対的な確実性を要求するものではなく、証拠の均衡が一方に傾いていることを求めるものであり、PTABはこの基準を適切に適用する必要があります。このような基準の明確化は、将来のPTAB手続きにおいて、より予測可能で一貫した決定を促進することが期待されます。