1. はじめに
2024年7月26日、連邦巡回控訴裁判所(CAFC)はSoftView LLC v. Apple Inc.事件において、特許庁(USPTO)が定めた特許権者に対するエストッペル(禁反言)規定の解釈と適用範囲に関する重要な指針を示しました。特に注目すべきは、既に発行された特許クレームと新規または補正されたクレームの間で、エストッペルの適用に違いが生じたことです。この判断は、特許権者の権利保護と特許制度の安定性のバランスを図る上で重要な意味を持ちます。
また、本判決はUSPTOの規則制定権限の範囲についても一定の見解を示しており、今後の特許法の発展に大きな影響を与える可能性があります。本稿では、判決が特許権者や特許実務家に与える影響、そして今後の展開についても考察します。
2. 背景
2.1. アメリカ発明法(AIA)とIPR制度
2011年、米国特許法は大きな転換期を迎えました。アメリカ発明法(Leahy-Smith America Invents Act、AIA)の成立です。この法律は、特許制度に多くの変革をもたらしましたが、その中でも特に注目すべきは当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)制度の創設でしょう。
IPR制度は、特許の有効性を迅速かつ効率的に判断するための画期的な仕組みとして導入されました。この制度により、特許権者以外の第三者が、特許の有効性に異議を申し立てることが可能になったのです。特許商標庁(USPTO)内に設置された特許審判部(Patent Trial and Appeal Board、PTAB)が、この手続きを担当します。
AIAは、USPTOに対してIPR制度の実施に必要な規則を制定する権限も与えました。具体的には、「当事者系レビューを規律し、かつ、当該レビューと他の手続との関係を規律する規則」を定める権限です(35 U.S.C. § 316(a)(4))。この権限に基づいて、USPTOは様々な規則を制定しましたが、その中に次に説明する特許権者に対するエストッペル規定も含まれていたのです。
2.2. 特許権者に対するエストッペル規定(37 C.F.R. § 42.73(d)(3))
USPTOが制定した規則の中でも、特に注目を集めたのが37 C.F.R. § 42.73(d)(3)です。この規則は、特許権者に対するエストッペル(estoppel、禁反言)を定めています。
規則の内容を簡単に言えば、「特許権者は、不利な判断と矛盾する行動をとってはならない」というものです。具体的には、IPRなどの手続きで特許クレームが無効とされた場合、特許権者はそのクレームと「特許性の区別(patentably distinct)」がない新たなクレームを取得することができなくなります。
この規則の目的は明確です。一度無効とされた特許クレームと実質的に同じ内容のクレームを、別の手続きで再び取得することを防ぐのです。これにより、特許制度の安定性と予測可能性を高めることが期待されました。
しかし、この規則の解釈と適用範囲については、多くの議論を呼びました。「特許性の区別」とは具体的に何を意味するのか。既に発行された特許クレームにもこの規則は適用されるのか。こうした疑問に対する明確な答えは、長らく示されていませんでした。
SoftView LLC v. Apple Inc. 事件は、まさにこれらの問題に正面から取り組んだ画期的な判決だったのです。
3. SoftView LLC v. Apple Inc. 事件の経緯
SoftView LLC v. Apple Inc. 事件の発端は、モバイルデバイスでのインターネットコンテンツ表示に関する特許をめぐる争いでした。この特許(米国特許第7,461,353号、以下「’353特許」)は、SoftView LLCが保有していました。
事の発端は2011年、Appleが’353特許に対して当事者系再審査(inter partes reexamination)を請求したことでした。Appleは、’353特許のクレームが先行技術に基づいて新規性または非自明性を欠くと主張し、USPTOに再審査を求めました。
その後、Motorolaも同様の再審査請求を行いました。さらに事態が進展し、2012年10月12日にはKyoceraが当事者系レビュー(Inter Partes Review、IPR)を請求しました。Kyoceraは’353特許の319クレームのうち18クレームを対象にIPRを請求。
2014年3月27日、PTABは最終書面決定を発行し、IPRで問題となった18のクレームすべてを無効と判断しました。SoftView LLCはこの決定を不服として連邦巡回控訴裁判所(CAFC)に控訴しましたが、CAFCはPTABの決定を支持しました。
この決定を受けて、2016年1月12日にUSPTOは無効とされたクレームを取り消すIPR証明書を発行しました。
ここから物語は新たな展開を見せます。IPRの結果を受けて停止が解除された再審査手続(ex parte reexamination)において、SoftViewは残りのクレームの一部を補正しました。しかし、PTABは補正されたクレームも含めて、すべての係属中のクレームを37 C.F.R. § 42.73(d)(3)(i)に基づいて無効であると判断したのです。
このPTABにおける補正クレームに対する対応を不服としたSoftView LLCが再度CAFCに上訴しました。
4. 連邦巡回控訴裁判所(CAFC)の判断
4.1. 「特許性の区別」の解釈
CAFCは、「特許性の区別(patentably distinct)」という用語の解釈について、PTABの判断を支持しました。裁判所は、この用語が特許法の分野で特殊な意味を持つことを認め、USPTOがその確立された意味を採用したと推定するのが適切だと判断しました。
具体的には、CAFCは次のように述べています。「『特許性の区別』という用語は、二重特許( obviousness-type double patenting)や抵触手続(interference proceedings)の文脈と同じ意味を持つと解釈されるべきです。なぜなら、この用語は全ての状況において、期限切れになったか無効とされた特許クレームと実質的に区別できない特許クレームの利用を禁止するという同様の目的を果たしているからです。」
この解釈により、先に無効とされたクレームに対して新規性または非自明性がないクレームは、「特許性の区別」がないと判断されることになります。CAFCは、この解釈が特許制度の安定性と予測可能性を高めるものだと評価しました。
4.2. USPTOのエストッペル規則制定権限
USPTOの規則制定権限については、CAFCは明確な立場を示しました。裁判所は、35 U.S.C. § 316(a)(4)がUSPTOに対して、単なる手続規則を超えた権限を与えていると判断したのです。
CAFCは次のように述べています。「§ 316(a)(4)は、『当事者系レビューを規律し、かつ、当該レビューと他の手続との関係を規律する規則』を定める広範な権限をUSPTOに与えています。この規定は、USPTOに手続規則だけでなく、実体的な規則を制定する権限も与えているのです。」
この判断は、2016年のCuozzo Speed Technologies, LLC v. Lee事件における最高裁判決を参照しています。CAFCは、最高裁がその判決で§ 316(a)(4)の範囲が広いことを認めていたことを指摘しました。
ただし、CAFCはUSPTOの権限に制限がないわけではないとも付け加えています。「USPTOの§ 316(a)(4)に基づく権限は無制限ではありません。」と裁判所は述べ、その具体的な範囲については将来の事件で判断されるべきだとしました。
4.3. 既発行クレームへのエストッペル適用制限
CAFCの判断の中で最も注目を集めたのが、既に発行された特許クレームへのエストッペル適用を制限したことでしょう。
裁判所は、37 C.F.R. § 42.73(d)(3)(i)の文言に注目しました。この規則は 「クレームを取得すること(obtaining a claim)」を禁止していますが、既存のクレームを維持することには言及していません。CAFCは、この区別は意図的なものであると判断しました。
判決文では次のように述べられています。「新しいクレームを『取得する』ことと、既に発行されたクレームを維持することとの間には、意味のある区別があります。前者は先の不利な判断を回避しようとする試みと見なすことができますが、後者はそのような性質を持ちません。」
この解釈により、PTABが既に発行されていたクレームにもエストッペルを適用した判断は覆されました。CAFCは、エストッペル規定は新規または補正されたクレームにのみ適用されるべきだと結論付けたのです。
この判断は、特許権者にとって大きな意味を持ちます。既に取得した特許権の安定性が高まり、IPRなどの手続きで一部のクレームが無効とされても、残りのクレームを維持できる可能性が開かれたからです。
5. 判決の影響
5.1. 特許権者への影響
SoftView LLC v. Apple Inc. 事件の判決は、特許権者にとって喜喜憂憂の結果をもたらしました。
まず、朗報として挙げられるのは、既に発行された特許クレームの保護が強化されたことです。CAFCが37 C.F.R. § 42.73(d)(3)(i)の適用を新規または補正されたクレームに限定したことで、特許権者は IPR(Inter Partes Review)などの手続きで一部のクレームが無効とされても、残りの発行済みクレームを維持できる可能性が高まりました。これにより、特許ポートフォリオの安定性が向上し、既存の権利を守りやすくなったと言えるでしょう。
一方で、新規または補正されたクレームに関しては、より厳格な審査が行われる可能性が高まりました。「特許性の区別(patentably distinct)」の解釈がより明確になったことで、無効とされたクレームと実質的に同じ内容の新しいクレームを取得することが困難になったのです。
また、この判決は特許権者に新たな戦略的考慮を求めることにもなりました。例えば、IPRで一部のクレームが無効とされた場合、残りのクレームを補正するかどうかの判断がより慎重に行われる必要があります。補正することで新たな保護範囲を得られる可能性がある反面、エストッペルの適用を受けるリスクも高まるからです。
5.2. 特許出願戦略への考慮事項
本判決を受けて、特許出願戦略にも大きな変化が求められることになりそうです。
まず、出願時により広範なクレームセットを準備することの重要性が高まりました。既発行クレームへのエストッペル適用が制限されたことで、多様なクレームを最初から用意しておくことのメリットが増したのです。これにより、一部のクレームが無効とされても、他の発行済みクレームで権利を維持できる可能性が高まります。
次に、継続出願(continuation application)の活用方法を再考する必要があります。CAFCの判断により、親出願のクレームが IPR で無効とされた場合、継続出願で類似のクレームを取得することが困難になる可能性があります。そのため、継続出願をどのタイミングで、どのような内容で行うかの判断がより重要になってきました。
さらに、特許性に関する先行技術調査の重要性も増しています。「特許性の区別」の判断がより厳格になる可能性があるため、出願前により詳細な先行技術調査を行い、本当に新規性・非自明性のある発明に絞って出願することが賢明でしょう。
最後に、特許ポートフォリオ全体の管理戦略の見直しも必要になりそうです。個々の特許だけでなく、関連する特許群全体でどのように権利を確保し、維持していくかを考える必要があります。例えば、核となる発明については複数の特許で保護し、それぞれに異なる特徴を持たせることで、一部の特許が無効となるリスクに備えるといった戦略が考えられます。
この判決は、特許実務家に新たな課題を突きつけると同時に、より戦略的な特許管理の機会も提供しているのです。
6. 未解決の問題と今後の展開
6.1. USPTOの規則制定権限の範囲
SoftView LLC v. Apple Inc. 事件でCAFCは、USPTOの規則制定権限を認めましたが、その範囲については明確な線引きを避けました。この判断は、今後の特許法の発展に大きな影響を与える可能性があります。
CAFCは判決の中で、「USPTOの35 U.S.C. § 316(a)(4)に基づく権限は無制限ではない」と述べています。しかし、その具体的な限界については明らかにしませんでした。代わりに、裁判所は次のように述べています。「§ 316(a)(4)の範囲を定義する作業は、将来の日のためのものであり、この問題により多くの焦点を当てた記録と簡潔な説明に基づいて決定されるべきである」
この慎重な姿勢は、特許法の複雑さと、USPTOの権限範囲が持つ潜在的な影響の大きさを反映しています。今後、USPTOがどこまで踏み込んだ規則を制定できるのか、そしてそれらの規則がどのように解釈されるのかは、特許実務家たちの間で大きな関心事となるでしょう。
例えば、USPTOが特許の実体審査に関する新たな規則を制定しようとした場合、それは§ 316(a)(4)の範囲内なのでしょうか。あるいは、特許権の効力に影響を与えるような規則はどうでしょうか。これらの問題は、今後の事件で争点となる可能性が高いと言えます。
6.2. Loper Bright Enterprises v. Raimondo 事件の潜在的影響
CAFCは判決の中で、USPTOの規則制定権限の範囲を定義する際には、最高裁による最近の判決、Loper Bright Enterprises v. Raimondo 事件(2024年6月28日判決)を考慮に入れる必要があると述べています。この言及は、特許法の世界に大きな波紋を投げかけています。
Loper Bright Enterprises v. Raimondo 事件は、行政機関の規則制定権限に関する重要な判断を下した最高裁判決です。この判決の詳細はまだ明らかになっていませんが、行政機関の権限解釈に新たな基準を示した可能性があります。
特許法の文脈では、この判決がUSPTOの規則制定権限にどのような影響を与えるのか、大きな注目を集めています。例えば、USPTOの規則が議会の意図を超えていないかどうかを判断する新たな基準が示される可能性があります。また、USPTOの専門性にどの程度の敬意を払うべきかについても、新たな指針が示されるかもしれません。
さらに、Loper Bright Enterprises 事件の影響は、特許法だけにとどまらない可能性があります。知的財産法全般、さらには行政法全体に波及する可能性もあるのです。
このような状況下で、特許実務家たちは今後の動向を注意深く見守る必要があります。USPTOの新たな規則や、それに対する裁判所の判断、さらには議会の動きなど、様々な要素が今後の特許法の形成に影響を与えることになるでしょう。
未解決の問題は多く残されていますが、それは同時に特許法の発展の可能性も示しています。今後の展開に、業界全体が注目しています。
7. 結論
SoftView LLC v. Apple Inc. 事件の判決は、特許権者に対するエストッペル(estoppel、禁反言)に大きな変革をもたらしました。既発行クレームと新規・補正クレームを区別することで、特許権者の権利保護と特許制度の安定性のバランスを図ろうとする裁判所の姿勢が明確になりました。同時に、USPTOの規則制定権限の範囲や「特許性の区別」の解釈など、今後の特許実務に大きな影響を与える重要な指針も示されました。この判決は、特許権者に新たな戦略的思考を求めると同時に、特許制度全体の進化を促す契機となっています。未解決の問題も多く残されていますが、それらは今後の特許法の発展可能性を示唆するものでもあります。特許実務家たちは、この判決を踏まえつつ、Loper Bright Enterprises v. Raimondo事件など今後の動向にも注目しながら、より効果的な特許戦略を模索していく必要があるでしょう。