はじめに
2024年10月24日、米国連邦巡回控訴裁判所(CAFC)は、標準必須特許(SEP: Standard Essential Patent)紛争における訴訟差止命令(ASI: Anti-Suit Injunction)の要件を根本的に変更する画期的な判決を下しました。訴訟差止命令(ASI)とは、一国の裁判所が当事者に対して他国での訴訟手続きの開始や継続を禁止する命令であり、国際的な特許紛争において重要な戦略的ツールとなっています。本件のアメリカにおけるERICSSON v. LENOVOの事件において、CAFCは「処分性(dispositive)」要件の解釈を大幅に緩和し、SEP実施者がASIを獲得しやすくなる道を開きました。
この判決の核心は、米国訴訟が外国訴訟全体を解決する必要はなく、外国での差止命令の適切性に関する問題を解決する可能性があれば「処分性」要件を満たすとした点にあります。これにより、SEP紛争の力学が大きく変わり、実施者側(この事件ではLENOVO)の交渉力が強化される可能性があります。
SEP紛争では、複数国での並行訴訟が一般的であり、ASIはこうした多国籍訴訟において自国の裁判手続きを優先させるための強力な手段です。今回の判決は、グローバルなSEP紛争解決の枠組みに重大な影響を与え、特許権者と実施者の間の力関係を再構築することになるでしょう。
事件の背景と経緯
ETSI標準とFRAND義務の概要
本事件は、欧州電気通信標準化機構(European Telecommunications Standards Institute、以下「ETSI」)が策定した5G無線通信標準に関わるSEPをめぐる紛争です。ETSIは、技術標準を開発・維持する国際的な標準化団体であり、その知的財産権(Intellectual Property Rights、以下「IPR」)ポリシーでは、SEP保有者に対して「公正、合理的かつ非差別的(Fair, Reasonable, and Non-Discriminatory、以下「FRAND」)」な条件でライセンスを提供する準備があることを宣言することを求めています。
ETSIのIPRポリシーに基づくFRAND宣言は、ERICSSON、LENOVOともに行っており、両社はこのFRAND宣言が契約であり、フランス法に基づき解釈されるべきことに合意しています。また、FRAND宣言には誠実交渉義務(duty to negotiate in good faith)が含まれることも両社の認めるところです。
両当事者間のライセンス交渉の経緯
ERICSSNとLENOVOは長期にわたり、互いのSEPに関するグローバルクロスライセンスの条件について交渉を続けてきました。しかし、合意に至らないまま、最終的に法的手続きへと発展しました。
2023年10月11日、ERICSSNはLENOVOに「最終的なライセンスオファー」を提示し、同日、ノースカロライナ東部地区連邦地方裁判所に訴訟を提起しました。ERICSSNの訴状では、LENOVOが4件の米国5G SEPを侵害していること、およびFRAND宣言に違反して誠実に交渉していないことを主張しました。また、ERICSSNは自社のオファーがFRAND義務に適合していることの確認を求め、仮にそうでない場合は裁判所がグローバルクロスライセンスのFRAND条件を決定することを求めました。
複数の法域での訴訟の展開
ERICSSNが米国で訴訟を提起した2日後の2023年10月13日、LENOVOは英国で訴訟を提起し、裁判所に両社間のグローバルクロスライセンスのFRAND条件の決定を求めました。その後、2023年12月15日には、英国裁判所にLENOVOの英国5G SEPの侵害を禁止する差止命令も申し立てています。
一方、ERICSSNは2023年11月20日と21日に、コロンビアとブラジルでそれぞれ訴訟を提起し、LENOVOによるコロンビアおよびブラジルの5G SEP侵害を主張、暫定的な差止命令を申し立てました。ERICSSNはブラジルでは2023年11月27日に、コロンビアでは2023年12月13日に差止命令を獲得しました。
2023年12月14日、LENOVOは米国訴訟で反訴を提起し、ERICSSNが4件のLENOVO保有の米国5G SEPを侵害していること、およびFRAND宣言に違反していることを主張しました。また、米国裁判所に両社間のグローバルクロスライセンスのFRAND条件の決定も求めました。
そして2023年12月29日、LENOVOはノースカロライナ東部地区連邦地方裁判所に、ERICSSNがコロンビアとブラジルで獲得した差止命令の執行を禁止するASIを申し立てました。
連邦巡回裁判所判決の核心
「処分性(dispositive)」要件の新解釈
地方裁判所は、第9巡回区控訴裁判所のMicrosoft Corp. v. Motorola, Inc.事件の判決から導かれた3段階の分析枠組みを適用して、LENOVOのASI申立てを審査しました。この枠組みの第1段階(閾値要件)は、米国訴訟が外国訴訟を「処分する(dispositive)」ものであるかどうかの判断です。
注釈:Microsoft v. Motorola事件の3段階分析枠組み
第9巡回区控訴裁判所が確立した訴訟差止命令(ASI)の分析枠組みは以下の3段階で構成されています:
閾値要件(Threshold Requirement):米国訴訟が外国訴訟の問題を「処分する(dispositive)」ものであるかどうか。この要件が満たされない場合、ASIは認められない。
反訴訟要素(Anti-Suit Factors):Unterweser要素として知られる以下の要素を考慮する:
- 外国訴訟が米国の公共政策に反するか
- 外国訴訟が嫌がらせ的、不公正、抑圧的、または不公平であるか
- 外国訴訟が米国裁判所の管轄権を脅かすか
- 外国訴訟が訴訟の重複による無駄や遅延をもたらすか
- 外国訴訟が米国訴訟と矛盾する判決をもたらす可能性があるか
国際礼譲(International Comity):ASIが国際礼譲の考慮事項と調和するかどうか。この分析では、外国の主権的利益と米国の司法的利益のバランスを取る。
今回のASIに関し、地方裁判所は、米国での訴訟がグローバルクロスライセンス契約の締結に必ず至るわけではないため、外国での訴訟を「処分する(解決する)」とは言えないという理由で、LENOVOの申立てを却下しました。
しかし、CAFCはこの解釈を覆しました。
CAFCによれば、「処分性」要件を満たすためには、米国訴訟が外国訴訟全体を解決する必要はなく、外国での差止命令の適切性に関する問題を解決する可能性があればよいとしました。また、「処分性」要件を満たすためには、米国訴訟が必然的に外国訴訟を解決する必要はなく、一方当事者の見解が米国訴訟で優勢となった場合に外国訴訟を解決する可能性があれば十分であるとしました。
Microsoft v. Motorola事件との比較分析
CAFCは、Microsoft v. Motorola事件を詳細に分析し、この事件では訴訟がライセンス契約を結果として生じるかどうかではなく、差止命令の利用可能性の問題が決定的であったと指摘しました。Microsoft事件では、MicrosoftがMotorolaのRAND(Reasonable And Non-Discriminatory)宣言違反を主張し、ドイツでMotorolaが求めていた差止命令を禁止するASIを申し立てました。第9巡回区控訴裁判所は、RAND宣言が差止命令の利用可能性に影響を与えるとの判断を支持し、ASIを認めました。
地方裁判所の「グローバルクロスライセンスの必要性」判断の誤り
CAFCは、地方裁判所とERICSSNの解釈がMicrosoft事件の誤った理解に基づいていると指摘しました。CAFCによれば、米国訴訟が外国訴訟全体(特にグローバルクロスライセンスの成立)を解決する必要があるという地方裁判所の判断は誤りであり、外国での差止命令の適切性に関する問題を解決する可能性があれば「処分性」要件を満たすと明確に示しました。
FRAND義務と差止命令の関係性
CAFCは判決の中で、ETSI FRAND宣言の解釈に踏み込み、FRAND宣言を行ったSEP保有者が差止命令を求める前に、FRAND宣言に含まれる誠実交渉義務を履行しなければならないとの立場を明確にしました。
誠実交渉義務の優先性
CAFCは、「FRAND宣言が実質的な意味を持つためには、SEP保有者が他の標準実施者に対して、まず何らかの行動基準(standard of conduct)に従うことなく、差止命令(injunction)を求める行動を起こすことができないという意味でなければならない」と述べています。この行動基準は、「最低限、FRAND宣言の誠実交渉義務(good-faith negotiation obligation)によって課されるものでなければならない」としました。
差止命令申請の前提条件としてのFRAND義務の履行
CAFCによれば、SEP保有者は自らのFRAND義務を履行した後でなければ差止命令を求めることはできません。FRAND義務の履行方法の一つが、実際にFRANDレートでのオファーを行うことです。CAFCは、米国訴訟ではERICSSNがFRAND義務を履行したかどうかが争点となっており、もし地方裁判所がERICSSNがFRAND義務を履行していないと判断した場合、それはERICSSNが差止命令を求める権利がないことを意味する、と結論付けました。
以上の理由から、CAFCは「処分性」要件が満たされていると判断し、地方裁判所の判断を破棄して差し戻しました。
判決の法的影響と実務的意義
訴訟差止命令の要件緩和
本判決は、ASIの「処分性」要件のハードルを下げ、SEP実施者がASIを獲得しやすくする方向に解釈を変更しました。 これまでは、米国訴訟が外国訴訟全体(特にグローバルライセンス)を解決する必要があるとされていましたが、今回の判決では、外国での差止命令の適切性に関する問題を解決する可能性があれば十分とされました。
この要件緩和により、SEP実施者が外国での差止命令に対抗するためのASIを獲得する可能性が高まります。ただし、CAFCは残りの2つの要件(反訴訟要素と国際礼譲)については判断せず、地方裁判所に差し戻しました。
SEP保有者の戦略への影響
差止命令戦略の再考
本判決により、SEP保有者は差止命令を求める前に、FRAND義務の履行、特に誠実交渉義務を履行したことを証明する必要性が高まります。これまで一部のSEP保有者は、交渉の初期段階から差止命令を求めることで、交渉を有利に進める戦略を取ることがありましたが、今回の判決はそのような戦略の再考を迫るものです。
交渉段階でのアプローチの変化
SEP保有者は、交渉過程をより丁寧に文書化し、FRAND義務を履行したことを証明できるようにする必要があります。特に、オファーがFRANDに準拠していることや、交渉が誠実に行われたことを示す証拠を蓄積することが重要になるでしょう。
実施者側の戦略的選択肢の拡大
ホールドアウト戦術の再評価
「ホールドアウト」(hold-out)とは、SEP実施者がライセンス交渉を意図的に引き延ばし、できるだけ低いライセンス料で合意を目指す戦術です。本判決は、SEP保有者の差止命令の利用可能性を制限する方向に働くため、実施者側のホールドアウト戦術を間接的に後押しする可能性があります。
ただし、CAFCはERICSSNがFRAND義務に違反したとは判断しておらず、単に「処分性」要件の解釈を変更したに過ぎないことに注意が必要です。さらに、残りの2つの要件については地方裁判所での判断を待つ必要があります。
多国籍訴訟への影響
本判決は、SEP実施者が米国訴訟を提起または反訴を提起し、外国での差止命令に対してASIを求める戦略を強化する可能性があります。特に、FRAND宣言の解釈が争点となる訴訟では、米国裁判所が外国での差止命令の執行を禁止するASIを発令する可能性が高まりました。
国際的な観点からの分析
国際礼譲(comity)の考慮
国際礼譲とは、ある国の裁判所が他国の法制度や裁判所の判断を尊重する原則です。ASIの発令は、他国の司法権に干渉する側面があるため、国際礼譲との関係が問題となります。
CAFCは今回の判決で国際礼譲の問題には直接触れていませんが、地方裁判所に対して、残りの要件(国際礼譲を含む)を検討するよう指示しています。ASIの発令が国際礼譲に与える影響は「耐えられる(tolerable)」かどうかが、最終的な判断基準となります。
グローバルなSEP紛争解決メカニズムへの影響
本判決は、グローバルなSEP紛争解決メカニズムにも影響を与える可能性があります。近年、英国やドイツなどの裁判所がグローバルFRANDレートを決定する判決を下すケースが増えていますが、本判決により、米国裁判所も同様の役割を果たそうとする動きが強まる可能性があります。
興味深いことに、欧州委員会は中国のASIに対して世界貿易機関(WTO)に苦情を申し立てていますが、今回の判決が米国のASI実務の拡大を示すものであれば、欧州委員会は米国に対しても同様の懸念を持つ可能性があります。
各国裁判所間の管轄権の緊張関係
本判決は、各国裁判所間の管轄権をめぐる緊張関係を高める可能性があります。特に、SEP紛争においては、各国裁判所がグローバルな解決を目指す傾向が強まっており、ASIと反ASI命令(Anti-Anti-Suit Injunction)の応酬が生じる可能性があります。
フランス法に基づくETSI FRAND宣言の解釈を米国裁判所が行った点も、国際的な法解釈の問題を提起しています。CAFCは、フランス契約法に関する専門家の証言なしに解釈を行っており、この点に関しても議論が生じる可能性があります。
今後の展望
地方裁判所への差戻し後の展開予測
本件はノースカロライナ東部地区連邦地方裁判所に差し戻され、残りの2つの要件について検討されることになります。特に、外国訴訟が「嫌がらせ的または抑圧的」であるかどうか、国際礼譲への影響が「耐えられる」かどうかが焦点となります。
LENOVOにとっては、CAFCの判断によって第1の要件はクリアしましたが、残りの要件もクリアしなければASIを獲得することはできません。特に、ブラジルとコロンビアの裁判所の判断を米国裁判所が覆すことの国際礼譲への影響は、慎重に検討される必要があります。
他の訴訟差止命令事件への影響
本判決は、Microsoft v. Motorola事件とHuawei v. Samsung事件の流れを汲むものであり、ASIに関する判例法の発展に貢献しています。特に、FRAND宣言を行ったSEP保有者の差止命令の利用可能性に関する解釈を明確にした点は、今後の事件に大きな影響を与えるでしょう。
すでに複数のSEP紛争が各国で進行中であり、本判決を受けて、これらの事件でもASIの申立てが増える可能性があります。
SEP紛争解決の新たなパラダイム
本判決は、SEP紛争解決の新たなパラダイムの形成に寄与する可能性があります。特に、SEP保有者と実施者のバランスをどのように取るかという問題に関して、FRAND義務の解釈と差止命令の利用可能性の関係を明確にしました。
長期的には、各国裁判所がグローバルなFRANDレートを決定する役割を競い合う状況から、より調和のとれたグローバルなSEP紛争解決メカニズムへの移行が望まれます。
特許実務家への実践的アドバイス
特許実務家にとっては、本判決を踏まえた戦略の再考が必要です。SEP保有者側の実務家は、差止命令を求める前にFRAND義務の履行を慎重に文書化し、特に誠実交渉の証拠を蓄積することが重要になります。
一方、SEP実施者側の実務家は、SEP保有者のFRAND義務違反を主張する際の証拠を集め、必要に応じてASIを申し立てる準備を整えることが有効です。特に、SEP保有者が外国で差止命令を求めた場合、米国訴訟でFRAND義務違反を主張し、ASIを申し立てる戦略が強化されるでしょう。
SEP紛争解決の将来展望
本判決は、SEP紛争解決制度の進化において重要な一歩と位置づけられます。特に、FRAND宣言の解釈と差止命令の利用可能性の関係を明確にした点は、今後のSEP紛争解決の方向性に大きな影響を与えるでしょう。
最終的には、各国裁判所間の協力と調和が進み、より効率的でバランスの取れたグローバルなSEP紛争解決メカニズムが発展することが望まれます。しかし、当面は各国裁判所の競合が続く可能性が高く、ASIと反ASI命令の応酬など、複雑な国際訴訟戦略が展開されることが予想されます。
結論
ERICSSON対LENOVOの判決は、ASIの「処分性」要件の解釈を変更し、SEP実施者がASIを獲得しやすくする方向に働く重要な判決です。特に、米国訴訟が外国訴訟全体を解決する必要はなく、外国での差止命令の適切性に関する問題を解決する可能性があれば「処分性」要件を満たすとの解釈は、SEP紛争における訴訟戦略に大きな影響を与えるでしょう。
また、CAFCがETSI FRAND宣言の解釈に踏み込み、SEP保有者が差止命令を求める前にFRAND義務を履行しなければならないと明確に示した点も重要です。
本判決を正しく理解し、その影響を見極めることが、グローバルなSEP紛争に関わる特許実務家にとって、今後ますます重要になるでしょう。