はじめに
2025年5月19日、アメリカ特許商標庁(United States Patent and Trademark Office、USPTO)の代理局長Coke Morgan Stewartが下した Ecto World, LLC v. RAI Strategic Holdings, Inc. の先例決定は、IPR(Inter Partes Review)実務における重要なケースとなりました。この決定は、既に特許庁に提出された先行技術文献を用いたIPR申立てにおける § 325(d) 条項の適用について明確な指針を示し、申立人の負担をより厳格に定義したのです。
本稿では、この画期的な決定が特許弁護士の実務に与える影響を詳しく分析していきます。特に注目すべきは、申立人が今後、単なる無効性の主張だけでなく、審査官の具体的誤りを明示的に特定し説明する義務を負うことになった点です。一方で、大量のIDS(Information Disclosure Statement)提出の状況では、審査の実質性に疑問を提起する新たな論証の道筋も開かれました。
§ 325(d) 条項と Advanced Bionics フレームワークの基礎
IPR制度における裁量拒絶(discretionary denial)の法的基盤を理解するには、まず § 325(d) 条項の本質を把握する必要があります。この条項は、「同一または実質的に同一の先行技術または論証が以前に特許庁に提出された場合」(”the same or substantially the same prior art or arguments previously were presented to the Office”)に、USPTO局長がIPRの開始を拒絶する裁量権を与えています。この規定の背景には、特許庁の審査効率性の確保と、申立人の正当な権利保護とのバランスを図る必要性があります。
Advanced Bionics 二段階テストの確立
2020年に確立された Advanced Bionics, LLC v. MED-EL Elektromedizinische Geräte GmbH の先例決定は、§ 325(d) 条項の適用について二段階のフレームワークを確立しました。この枠組みは、IPR実務において極めて重要な役割を果たしています。
第一段階では、同一または実質的に同一の先行技術・論証が特許庁に以前に提示されたかどうかを判断します。これは比較的事実関係に基づく判断で、IDS上の文献の記載や審査過程での先行技術の使用状況が評価されます。
第二段階では、より複雑な判断が求められます。申立人は、特許庁が「特許性に重要な態様で重大な誤りを犯した」(“made a substantial error in a manner material to patentability”)ことを立証しなければなりません。この段階では、単に先行技術が存在していただけでは不十分で、審査官がなぜその先行技術を適切に評価しなかったのかを具体的に説明する必要があります。
Becton Dickinson 判決の6つの考慮要因
PTAB(Patent Trial and Appeal Board)は、Becton, Dickinson & Co. v. B. Braun Melsungen AG 判決において、Advanced Bionics フレームワークの適用を支援する6つの非排他的考慮要因を提示しました:
- (a) 申立てで主張される技術と審査中に検討された先行技術との類似点と重要な相違点の評価
- (b) 申立て技術と審査中に評価された先行技術の累積的性質の考慮
- (c) 先行技術が拒絶の根拠となったかどうかを含む、審査中の先行技術評価の程度の検討
- (d) 審査中になされた論証と申立人が先行技術に依拠する方法との重複の程度の分析
- (e) 申立人が審査官の先行技術評価における誤りを十分に指摘したかどうかの評価
- (f) 申立書で提示された追加的証拠と事実が先行技術または論証の再検討を正当化する程度の考慮
これらの要因は、IPR申立ての戦略策定において極めて重要な指針となっています。
Ecto World 決定の事実関係と争点
Ecto World 事件は、現代のIPR実務における複雑な問題を浮き彫りにする典型的な事例でした。申立人のEcto World, LLCとSV3, LLCは、RAI Strategic Holdings, Inc.の米国特許第11,925,202号に対してIPR申立てを行いました。
事案の概要
この事件の最も注目すべき特徴は、申立人が依拠した先行技術文献がすべて、特許の審査過程でIDS上に記載されていた点です。しかも、このIDSには1,000件を超える文献が含まれており、典型的なIDSの25件未満という規模を大幅に上回る異常な状況でした。
審査過程において、審査官はこの大量のIDS提出を認識し、出願人に対して「審査官が特に注意を払うべき特定の文献または文献の一部」を特定するよう要請していました。しかし、出願人はこの要請に応答しませんでした。それにもかかわらず、審査官はすべての文献を「検討済み」として印を押し、特許は先行技術に基づく拒絶を受けることなく登録されました。
申立人は、14,000語という申立書の語数制限をほぼ使い切りながらも、§ 325(d) 分析にはわずか2ページしか割かず、審査官の具体的な誤りについて詳細な説明を提供しませんでした。この戦略的判断が、後に重大な結果をもたらすことになります。
審理の経緯
PTABは当初、Advanced Bionics フレームワークの第一段階が満たされている(先行技術が以前に提示されている)と判断し、第二段階において申立人が審査官の重大な誤りを立証していないとして、IPRの設立を拒絶しました。
申立人は、この決定に対してDirector Review(局長審査)を請求しました。申立人の主要な論拠は、PTABが Advanced Bionics フレームワークを誤適用し、申立書の他の部分で十分な無効性の論証を行っているにもかかわらず、審査官誤りの明示的な特定を要求したというものでした。
特許権者側は、この局長審査請求に対して反駁を行い、さらに Apple Inc. v. Fintiv, Inc. 要因に基づく裁量拒絶も求めました。これは、並行するITC(International Trade Commission)手続きがあることを理由とするものでした。
Stewart局長による先例決定の核心
Stewart代理局長による決定は、IPR実務に根本的な変化をもたらす重要な明確化を行いました。この決定は、PTAB内で分かれていた判断を統一し、今後のIPR申立てにおける標準的なアプローチを確立したのです。
Advanced Bionics 第二段階の明確化
最も重要な変更点は、Advanced Bionics フレームワークの第二段階に関する明確化です。Stewart局長は、「IDS上にある先行技術を主張する場合であっても、審査官がその文献を拒絶に適用しなかった場合、申立人は分析を提供しなければならない」と明確に述べました。
この分析において、申立人は Becton Dickinson 要因(c)、(e)、(f)を参照して、「審査官がその先行技術を見落とした際にどのように誤ったか」を説明しなければなりません。単に申立書の他の部分で強力な無効性の論証を行っているだけでは不十分であり、審査官の具体的な誤りを明示的に特定する義務が確立されました。
局長は、申立人が「PTABに対して Advanced Bionics の第二段階の下で論証を寄せ集めるよう求める」ことは、「申立人の重大な誤りを立証する負担をPTABに不適切に転嫁する」ものだと厳しく指摘しました。この表現は、著名な判例の引用「判事はトリュフを探すブタのようではない」を想起させるものでした。
大量IDS提出における特別考慮
一方で、Stewart局長は大量のIDS提出という特殊な状況に対する新たな論証の道筋も示しました。Becton Dickinson 要因(f)の下で、申立人は「審査中に特許庁に提出された文献の量と、文献の関連性に関する出願人の情報または支援」に基づいて論証を行うことができるとしました。
本件では、1,000件を超える文献を含むIDSが「典型的なIDSの40倍以上の規模」であり、審査官が出願人に重要な文献の特定を要請したにもかかわらず、出願人がその要請に応じなかったという事実が重要な考慮要素となりました。これらの事実は、「§ 325(d) の下での裁量拒絶が適切でない可能性を示している」と局長は指摘しました。
実務への具体的影響
Ecto World 決定は、IPR実務に即座に具体的な影響を与えています。申立人側と特許権者側の両方が、この新たな基準に適応するための戦略的調整を迫られています。
申立人側の対応戦略
IPR申立書の構成において、最も重要な変更は § 325(d) 分析の強化です。従来、多くの申立人がこの分析を軽視し、限られたスペースしか割かなかったのに対し、今後は専用のセクションを設けて詳細な分析を行う必要があります。
具体的には、IDS上の先行技術を使用する場合、申立人は以下の要素を含む包括的な分析を提供しなければなりません。まず、審査官がなぜその特定の先行技術を見落としたのかの具体的説明です。これには、先行技術の重要な開示内容と、それが請求項の特許性に与える影響の詳細な分析が含まれます。
さらに、Becton Dickinson 要因(c)、(e)、(f)への明示的な言及と分析が必要です。特に要因(e)の下で、申立人は「審査官の先行技術評価における誤りを十分に指摘」しなければなりません。これは、単に先行技術が関連性を有することを示すだけでなく、なぜ合理的な審査官であれば異なる判断を下したであろうかを説明することを意味します。
大量IDS状況での効果的論証手法も重要な考慮事項です。申立人は、IDSの規模、審査官の文献選別要請、出願人の対応(または無対応)などの具体的事実を活用して、審査の実質性に疑問を提起することができます。この論証は、要因(f)の下で「審査官が各文献を意味のある方法で検討することができなかった」可能性を示唆するものです。
裁量拒絶対応ブリーフィングの活用も新たな戦略的選択肢となりました。2025年3月26日から導入された新手続きにより、申立人は14,000語の制限内で Advanced Bionics と Becton Dickinson 要因の包括的分析を行うことができます。この手続きは、申立書の語数制限の制約から解放された、より詳細な分析を可能にします。
特許権者側の防御戦略
特許権者側にとって、Ecto World 決定は予防的措置と積極的防御の両面で重要な示唆を提供しています。
審査段階での予防的措置として、適切な規模のIDS作成が極めて重要になりました。大量のIDS提出は、後のIPR手続きにおいて申立人に有利な論証材料を提供する可能性があります。特許権者は、関連性の高い文献に焦点を絞ったIDSの作成を心がけるべきです。
審査官からの文献選別要請に対する適切な対応も重要な考慮事項です。Ecto World 事件では、出願人が審査官の要請に応じなかったことが、後に申立人の論証に利用されました。出願人は、審査官の要請に積極的に協力し、重要な文献を明確に特定することで、後の IPR 手続きでのリスクを軽減できます。
継続出願ファミリーでの一貫した文献管理も重要な戦略です。Ecto World 事件では、同じ審査官が2006年から特許ファミリー全体を審査し、文献が段階的に追加されていったという事実が、特許権者の防御に役立ちました。このような長期的な審査履歴は、審査官の十分な検討を立証する有力な証拠となります。
IPR対応での効果的主張として、審査記録の包括的活用が挙げられます。特許権者は、審査官による十分な検討の実績を立証するため、審査過程での詳細な記録を収集・整理する必要があります。これには、審査官のコメント、面接記録、応答書類などが含まれます。
新たな裁量拒絶基準の運用指針
Ecto World 決定により確立された新たな基準は、実務家にとって具体的な運用指針を提供しています。これらの指針は、今後のIPR申立ての成否を左右する重要な要素となります。
審査官誤りの立証基準
審査官の重大な誤りを立証するための具体的手法が明確化されました。申立人は、単に先行技術が存在することを示すだけでなく、なぜ合理的な審査官であれば異なる判断を下したであろうかを説明しなければなりません。
重要性(materiality)の判断基準も厳格化されています。Stewart局長は、「合理的な人々が推定される技術または論証の取り扱いについて意見を異にする可能性がある場合、特許庁が特許性に重要な態様で誤ったとは言えない」(”where reasonable people may disagree about the treatment of the putative art or arguments, the Office did not err in a manner material to patentability”)と述べています。この基準は、申立人にとって高いハードルとなります。
反証可能性の限界も設定されました。審査官が先行技術を適用したか、実質的に同じ先行技術を審査中に適用した場合、申立人は「以前に提示された技術が請求項の限定を教示し、合理的な審査官が他の判断を下すことはできなかった」ことを立証しなければなりません。
大量文献提出時の評価基準
大量のIDS提出時の特別な評価基準も確立されました。文献数による審査品質への影響評価において、Stewart局長は「1,000件を超える文献」が「典型的なIDSの40倍以上」であることを具体的に指摘しました。この数値的基準は、今後の類似事件における重要な参考となります。
申立人による審査不備の効果的論証方法として、要因(f)の活用が推奨されました。申立人は、IDSの規模、審査時間の制約、審査官の専門分野などを総合的に考慮して、実質的な審査が行われなかった可能性を論証することができます。
審査官の文献選別要請への対応評価も重要な要素となりました。出願人が審査官の要請に応じなかった場合、それは審査の実質性に疑問を提起する材料として活用される可能性があります。
関連判例法理との整合性
Ecto World 決定は、既存の判例法理との整合性を保ちながら、重要な明確化を行いました。特に、PTAB内で分かれていた判断を統一し、一貫した適用基準を確立した点が重要です。
従来判例との比較分析
Chemtronics USA, Inc. v. Flatfrog Labs., AB 事件では、PTABパネル間で判断が分かれていました。多数意見は申立人の無効性主張に基づいて重大な誤りを認定したのに対し、反対意見は申立人が Advanced Bionics フレームワークの第二段階の下で論証を行っていないことを理由に、重大な誤りの立証失敗を指摘していました。
Ecto World 決定は、この対立を明確に解決しました。Stewart局長は、「この決定は論争を解決し、IDS上にある先行技術を主張する場合であっても、審査官がその文献を適用しなかった場合、申立人は分析を提供しなければならないことを明確化する」と述べています。
PTAB パネル間の判断不統一は、実務家にとって予測可能性の欠如という深刻な問題を生み出していました。Ecto World 決定による統一的基準の確立は、この問題を解決し、より安定した法的環境を提供しています。
先例決定としての拘束力の範囲も明確化されました。この決定は「セクションA」について先例的であると指定されており、§ 325(d) 条項の適用に関する部分が今後のPTAB決定に拘束力を持つことになります。
今後の発展可能性
Ecto World 決定は、他の裁量拒絶事由との関係性についても重要な示唆を提供しています。特に、Fintiv 要因との組み合わせ適用について、Stewart局長は段階的アプローチを示しました。PTABは、§ 325(d) の下での裁量拒絶を行わないと判断した場合にのみ、Fintiv 要因を検討すべきとしています。
USPTO政策変更の影響予測も重要な考慮事項です。Stewart局長による2022年中間手続きメモの撤回や、新たな裁量拒絶ブリーフィング手続きの導入など、政策変更が実務に与える影響は継続的に監視する必要があります。
連邦巡回控訴裁判所(Court of Appeals for the Federal Circuit、CAFC)での審査可能性も注目されます。Ecto World 決定で確立された基準が、上級審でどのように評価されるかは、今後の法理発展に大きな影響を与える可能性があります。
戦略的考慮事項
Ecto World 決定は、IPR実務における戦略的判断に根本的な変化をもたらしています。実務家は、この新たな環境に適応するため、従来のアプローチを見直す必要があります。
タイミングと手続き選択
IPR対PGR(Post-Grant Review)の選択において、§ 325(d) 要因の重要性が増しています。先行技術がIDS上に記載されている場合、IPR申立てのハードルが高くなったため、PGRの活用を検討する価値が高まっています。
地方裁判所訴訟との並行手続き考慮も重要な戦略的要素です。Ecto World 決定により、IPR設立の予測可能性が変化したため、訴訟戦略全体の見直しが必要となる場合があります。
ITC手続きとの関係性については、Fintiv 要因の復活により、新たな複雑さが加わりました。Stewart局長による2022年中間手続きメモの撤回により、ITC手続きとの並行状況が再び重要な考慮要素となっています。
費用対効果分析
詳細な § 325(d) 分析のコスト増加は避けられない現実です。申立人は、従来よりも多くのリソースを § 325(d) 分析に割り当てる必要があり、これは申立てコストの増加を意味します。
設立拒絶リスクと申立戦略修正のバランスも重要な考慮事項です。新たな基準により設立拒絶のリスクが高まった場合、申立人はより慎重な事前評価と、代替戦略の検討が必要となります。
長期的な成功率向上への投資価値を適切に評価することも重要です。初期コストの増加にもかかわらず、適切な § 325(d) 分析により設立が認められれば、最終的な費用対効果は改善される可能性があります。
まとめ
Ecto World, LLC v. RAI Strategic Holdings, Inc. におけるStewart代理局長の先例決定は、IPR実務における申立人の立証責任をより明確化し、特許庁に既に提出された先行技術を用いる場合の戦略的アプローチを根本的に変更しました。申立人は今後、単なる無効性の主張だけでなく、審査官の具体的誤りを明示的に特定し説明する義務を負うことになります。
この変化は、IPR制度の本質的な運用方針の転換を示しています。従来の「トリュフハンティング」的なアプローチ、すなわち申立人が大まかな方向性を示し、PTABが詳細な分析を行うという手法は、もはや許容されません。申立人は、審査官の誤りを特定し、なぜその誤りが特許性に重要であるかを明確に論証する責任を負います。
一方で、大量IDS提出の状況では、審査の実質性に疑問を提起する新たな論証の道筋も開かれました。1,000件を超える文献を含むIDSが「典型的なIDSの40倍以上」であるという具体的な数値基準は、今後の類似事件における重要な指針となります。出願人が審査官の文献選別要請に応じなかった場合、それは申立人にとって有利な論証材料となる可能性があります。
特許弁護士は、この新基準に適応するため、IPR申立書の構成を根本的に見直し、§ 325(d) 分析により多くのリソースを割り当てる必要があります。同時に、審査段階からIPRを見据えた戦略的文献管理の重要性も格段に増しています。適切な規模のIDS作成、審査官要請への積極的対応、継続出願ファミリーでの一貫した文献管理など、予防的措置の価値は計り知れません。
2025年3月26日から導入された新たな裁量拒絶ブリーフィング手続きは、申立人にとって追加的な機会を提供していますが、同時により詳細で説得力のある分析を求められることも意味します。14,000語という制限内で、Advanced Bionics と Becton Dickinson 要因の包括的検討を行う能力が、今後のIPR実務における重要なスキルとなるでしょう。
Ecto World 決定の影響は、IPR制度を超えて特許実務全般に及ぶ可能性があります。USPTO の政策変更への適応、CAFC での上級審における法理発展、そして国際的な特許制度との調和など、多岐にわたる課題が今後も継続的に生じることが予想されます。
この決定は単なる手続き変更ではなく、IPR制度の根本的な理念の明確化を示しています。特許庁の限られた資源を効率的に活用しながら、正当な無効理由を有する申立てに適切な審理機会を提供するという、制度本来の目的により忠実な運用が求められているのです。今後の特許実務全般において、この新たな基準が長期的で深遠な影響を与えることは疑いありません。